ピョートル大帝はどの時代に何をしたか【ロシア皇帝人物図鑑】
プーチン大統領が6月9日、ピョートル大帝をテーマとした展覧会を訪問し、自らをピョートル大帝になぞらえてウクライナ侵攻を正当化する発言をしたことが話題になっています。
ピョートル大帝はロシアが「ロシア帝国」となった時の初代皇帝です。
ヘトマン国家(ウクライナ)を破り消滅に向かわせた皇帝でもあります。
スウェーデンとの戦いにも勝利し、スウェーデンから奪った港町のサンクト・ペテルブルクを首都にしました。
ちなみにプーチンはサンクト・ペテルブルク出身です。
ピョートル大帝はどのような皇帝だったのでしょうか。
歴代のおもな大公・皇帝の流れとともにまとめます。
目次
アレクサンドル・ネフスキー
在位:1252 ~1263年
モスクワ大公国を創立へ
タタール人支配の時代に、タタールと対峙せず貢納し、王位継承権を守る。
息子ダニールがモスクワ大公国を設立。
イヴァン3世
在位:1462~1505年
タタール人支配から脱却
周辺の領土を併合、征服により急速に獲得。モスクワ大公国の版図を4倍に拡大。
イヴァン4世
初の「ロシア皇帝」を名乗る
東側へ領土を拡大。
暴政と蛮行と残虐行為の恐怖政治をしき「雷帝」と恐れられた。
1547年、ツァーリとして戴冠式を行って正式な皇帝を名乗り、神に次ぐ権力をもつ全ロシアを統治する専制君主であることを誇示した。
ピョートル大帝
在位:1682~1725年
「ロシア帝国皇帝」に
モスクワ大公国からの独立をめざすコサック国家(ウクライナ)との決戦(ボルタヴァの戦い)で勝利。
コサック国家は消滅に向かう。
これまでモスクワの元祖国家「キエフ・ルーシ」が使用していた「ルーシ」をラテン語にした「ロシア」を使用するようになる。
スウェーデンとはイヴァン4世の時代から境界を押したり押されたりの争いを続けていたが、ピョートル大帝は完全な勝利を収めた。
この戦争は北方戦争(1700~1721年)で、講和条約でロシアの領土は将来もスウェーデンに併合されないことが決められた。
完全勝利の象徴として、スウェーデンの領地だったバルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクを建設し首都とした。
ピョートル大帝は1721年「皇帝」の称号を得、ロシア帝国皇帝となる。
これによりヨーロッパ列強に並ぶ。
ちなみにプーチンは「皆さんは、ピョートル大帝はスウェーデンと戦い、土地を奪ったのだと考えているかもしれないが、その地域には何世紀にもわたってスラヴ系民族が住んでいた。大帝は何も奪っていない。奪い返したのだ!」と話したそうですが、勝手な解釈です。
確かにキエフ・ルーシが建国されるころスラブ系民族が住んでいました。
しかし、スラブ民族が起こる前の紀元前の頃はこのあたりはバルト人、フィン=ウゴル人が住んでいたところです。
そこからスラブ民族が浸食していったのです。
エカチェリーナ2世
在位:1762~1796年
侵略と併合で、ヨーロッパ列強の地位確立
夫ピョートル3世をクーデターで打倒し、女帝に。
オスマン帝国に勝利し、クリミア半島を獲得。
他周辺へ侵略と併合を繰り返し領土拡大。
3度のポーランド分割に関与。
農奴に重税を課した。
ニコライ1世
在位:1825~1855年
クリミア戦争勃発
アレクサンドル2世
在位:1855~1881年
ロシアのヨーロッパにおける影響力が大幅に縮小。農奴解放
クリミア戦争劣勢の状況で講和に応じ、領地、黒海における艦隊の保有権、地中海への航行権を失う。
大衆の反感が高まり、1861年農奴解放令を実施。
暗殺され死去。
ニコライ2世
在位:1894~1917年
ロシア帝国最後の皇帝
皇帝のセンスなく、農民出身の霊能者ラスプーチンに強く影響される。
ラスプーチン
日露戦争(1904年)、第1次世界大戦(1914年)を戦うも敗戦。
国内ではロシア革命が起こり、要求によって退位させられる。
退位後、革命勢力ボルシェビキにより家族とともに殺害される。
ニコライ2世と妻とこどもたち
明治時代の「大津事件」で日本の警察官に切りかかられたのがニコライ2世。