【簡易にして完全版】ウクライナの歴史。キエフ・ルーシからコサックが起こり独立するまで

Ⅰ ウクライナの元祖 キエフ・ルーシの始まり

1. バイキングがキエフの地に

ウクライナ、ロシア、ベラルーシの元祖は共通でキエフ・ルーシです。
キエフ・ルーシは東スラブ人の住んでいたエリアに北欧からわたってきたバイキング(ヴァリャーグ人)がつくった国家です。

バイキングやってくる

ヴァリャーグ人は自分たちのことを「ルーシ」と称していたことが国名の起源です。
キエフ・ルーシは10~11世紀が全盛で、ヨーロッパの大国でした。
キエフ、ミンスク(現在のベラルーシの首都)、モスクワが含まれていて、首都はキエフでした。

2. キエフルーシ拡大

キエフルーシの初代国王はオレフです。
キエフルーシは882年のオレフから1125年まで勢力を拡大し全盛時代を築きます。
特に11世紀のウラジーミルの時代はヨーロッパ最大の国となります。

キエフ・ルーシ(11世紀頃)

キエフ・ルーシ国王

882-912年 オレフ

(キエフを首都に)

↓ 子
912-945 イホル
↓ 妻
オリハ
↓ 子
945-972 スヴャトラフ
↓ 息子
972-1015 ウラジーミル[聖公]

(ヨーロッパ最大。キリスト教を国教に。)

↓ 息子
1019-1054 ヤロスラフ[賢公]

(法整備、キリスト教聖典の翻訳などを行う。黄金の門(キエフの大門)建設。)

↓ 孫
1113-1125 モノマフ
以降、解体へ

3. 諸侯分裂する

12世紀、モノマフ以降、一族同士の争いが勃発し諸侯が分裂する内乱が続きキエフ・ルーシは弱体化します。

4. タタール人くる

キエフ・ルーシの混乱に加え、周辺のタタール人が襲来するようになります。

イーゴリ―公(キエフ・ルーシから独立したノヴゴロド共和国の王)vsポロヴェツ人(タタール人)の
戦いの物語『イーゴリ―遠征物語』のイラスト

1240年キエフは侵略されキエフ・ルーシはタタール人支配下となりました。
服従し納税すれば自治が認められ、またロシア正教も保護されました。
タタール人支配が終了するのは、1480年です。

Ⅱ モスクワの拡大

1. モスクワ大公国建国

タタールの支配下でキエフは弱体化した一方で、モスクワは力をつけていきます。
モスクワは、タタール人国家のキプチャク・ハン国に服従を示すことで平和を維持したのです。
貢納を納めることで王位継承を認められ、他の諸侯からの徴税も任され、豊かになり安定を保ちました。
1276年には、モスクワ大公国を建国しました。

2. リトアニアの拡大

タタール支配が弱まり、西からウクライナ方面に勢力を拡大してきたのが、リトアニアです。
リトアニアは1362年、ヨーロッパ最大となります。

3. ポーランドの拡大

1569年にはリトアニアの隣国ポーランドが力をつけ、ポーランド・リトアニア連合国となり、事実上リトアニアはポーランドに併合されました。

Ⅲ 「ウクライナ」「コサック」の起こり

1.「ウクライナ」の語源、「コサック」の起源

13世紀にタタール人支配下になって以降、ドニプロ川(ドニエプル川)周辺はタタール人の奴隷狩りがあるなど荒廃し危険な土地でした。
その一方で、東はドニプロ川、西はドニエストル川にはさまれた広大な草原は漁、牧畜に適し植物の生育もよく豊かな土地でもありました。

16世紀頃、住民は敵から自分の土地を自力で守ろうと武装するようになりました。
やがて武装した集団は逆にタタールを襲撃するようになり「コサック」とよばれるようになったのです。
コサックには、ドニプロ川周辺住民のみならずポーランドやモルドバ、トルコから流入した人々もいます。

コサックの勢力圏(17世紀)


そしてコサックが力をつけるようになるとコサックがいる地帯は「ウクライナ」とよばれるようになりました。
「ウクライナ」の語源ははっきりしていませんが、「土地(ランド)」を意味するという説があります。
ウクライナのリーダーを「ヘトマン」といいます。

オスマン帝国のスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック(イリヤ・レーピン、1880年)

2.コサック国家(ヘトマン国家)の成立

16世紀、ウクライナはポーランド・リトアニア連合国の支配下にありました。
1648年、ウクライナのコサックは支配下から逃れようとポーランドと戦います。

この時のコサックのリーダーのヘトマンはフメリニツキーです。

フメリニツキーは宿敵タタールと同盟を結びポーランド軍を破り、コサックの権利を獲得し和平を結びました。
ここで「コサック国家」(「ヘトマン国家」)が成立したのです。

3.コサック、モスクワに保護を求める

1651年、再びポーランドとの戦いが勃発しました。
フメリニツキーは、今度はタタールの裏切りにあい、モスクワの保護下に入ることにします(1654年)

4.モスクワ裏切る

ところが、ここにポーランドと敵対するスウェーデンがからむなどで、モスクワ大公国はウクライナを裏切りポーランドと和平協定を結びます(1656年)。

5.ウクライナ、ポーランドとモスクワに分割される

フメリニツキーは怒りますが、病気で亡くなります。
その後はポーランド、モスクワ、タタール、コサックの対立などで混乱します。
最終的には、ポーランドとモスクワはウクライナのドニエプル川沿岸の東西をお互いの主権範囲として確定します(1667年)。

6.コサック、最後の戦い

コサックの対立によりウクライナも弱体化しますが、ここでヘトマンのマゼッパが登場します。

マゼッパはウクライナの英雄として紙幣に描かれています。文鉄・お札とコインの資料館ウェブサイトより引用。

マゼッパはウクライナの復権を志しながら、モスクワとよい関係をもっていました。
しかし、モスクワへの信頼に疑念をもち、またスウェーデンにつくのほうがウクライナの独立に有利だと考え、最終的にモスクワを敵として戦うことになります。
[スウェーデン軍とマゼッパ・コサック軍]vs[モスクワ軍とモスクワ側のコサック軍]
の戦いです。
この戦いは「ポルタヴァの戦い」といいます(1709年)。

ポルタヴァの戦い

「ポルタヴァの戦い」で勝利したのはモスクワ側。
ウクライナの独立はかないませんでした。
一方、モスクワはこの後強国となり、1713年「キエフ・ルーシ」だった「ルーシ」をラテン語にした「ロシア」を用いるようになりました。

7.ポーランド分割

18世紀、ポーランドはロシアをはじめ、周辺国から干渉をうけ、ついにロシア、オーストリア、プロイセンに3分割されました。

Ⅳ ウクライナ独立への道

1.「ウクライナ共和国」の成立

1914年、第1次世界大戦が勃発します。
[ドイツ、オーストリア]vs[フランス、イギリス、日本、ロシアなど]の戦いです。
ロシアは敗退を重ね、国内では物資が不足し国民、労働者の間で不満が充満していました。
そして1917年、ロシア革命が起こり、ロシア帝政は倒されました。

この混乱をうけウクライナ人も決起し1917年2月「ウクライナ中央ラーダ」を結成し、ウクライナは連邦ロシア内の自治の地であることを宣言しました。
そしてついに11月「ウクライナ国民共和国」を創設したのです。

現在のウクライナの国章「三叉の鉾」はこの時に制定されたもの

しかし、ロシアや周辺国の干渉で内乱状態になり、ウクライナ国民共和国はロシアに撃破され、独立は失敗に終わりました。

2.「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」となりソ連の一員に

ロシアは、ウクライナ人が「ウクライナ国民共和国」を創設したのに対抗し、「ウクライナ・ソビエト共和国」を成立させていました。
第1次世界大戦が終わると、ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦」となり、ウクライナは「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」となりソ連の構成共和国になりました(1922年)。

以後、「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」は70年間続くことになります。

3.ソ連崩壊 「ウクライナ」独立

ソ連は、1970年代から80年代にかけて経済が著しく不振になりました。
1986年に書記長に就任したゴルバチョフは政治・経済を大胆に改革する「ペレストロイカ」を実行しました。
検閲などを廃止し情報を公開する「グラスノスチ」も導入され、この大改革は民主化と自由化を求める運動につながりました。

1991年、バルト3国が独立したのに続き、ソ連11共和国が分離独立、ウクライナは8月24日に独立し、国名を「ウクライナ」としました。

1.ロシア、2.ウクライナ、3.ベラルーシ、4.ウズベキスタン、5.カザフスタン、6.ジョージア、7.アゼルバイジャン、8.リトアニア、9.モルドバ、10.ラトビア、11.キルギス、12.タジク、13.アルメニア、14.トルクメニスタン、15.エストニア

ウクライナ応援シリーズ

チャイコフスキー交響曲第2番『小ロシア』改め交響曲第2番『ウクライナ』とします。

ムソルグスキー作曲『展覧会の絵』の「キエフの大門」はウクライナの元祖キエフ・ルーシ国王が建設した。

ボロディン作曲『韃靼人(だったんじん)の踊り』もウクライナ由来。

チャイコフスキー作曲のオペラ『マゼッパ』はウクライナの英雄

ベートーベンのパトロン、ラズモフスキーはコサックのリーダー=ヘトマンの息子

日本生まれの国際NGO AAR Japan[難民を助ける会]はウクライナ避難民の方々支援のための寄付を募っています

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