【歴史地図】チェコ、スロバキアがウクライナに戦車、地対空ミサイルを供与したその理由
4月、チェコがウクライナへ戦車供与を表明しました。
外国の戦車供与は初めてです。
T72戦車
また、スロバキアもS300地対空ミサイルを供与しました。
S300地対空ミサイル
米欧諸国は対戦車ミサイル「ジャベリン」や燃料・弾薬の支援をしてきましたが、戦車や対空ミサイルの投入でより攻撃力が高まります。
ウクライナのクレバ外相は4月7日、NATO本部で記者会見し「私の要求は3つしかない。兵器と兵器それに兵器だ」と話し兵器の供与を求めていますが、米欧諸国はロシアと直接、戦争に発展する可能性を考えて、慎重な姿勢を崩していません。
ここで、登場したのがチェコとスロバキアです。
チェコスロバキアの歴史からみた特徴がこの役割を果たしているのではないかと思います。
3つの特徴からまとめます。
目次
特徴1 東欧圏であった
第2次世界大戦終結後、世界は「西欧vsソ連・東欧圏に色分けされ冷戦時代となります。
チェコスロバキアはソ連のコントロール下におかれた「ソ連・東欧圏」に含まれていました。
西欧(NATO加盟国[青])とソ連・東欧圏(WTO加盟国[赤])(1955年)
特徴2 もとは西欧だった
チェコスロバキア共和国の成立
冷戦時代は東欧圏でしたが、もともとはオーストリアに支配されていました。
19世紀のオーストリア帝国
第1次世界大戦で、オーストリア(オーストリア・ハンガリー帝国)はドイツと同盟を組んでおり、敗れます。
第1次世界大戦後、アメリカのウイルソン大統領が民族自決主義を提唱し、新国家が独立しました。
チェコスロバキア共和国も1918年建国され、西欧型の民主主義国家としてスタートしました。
ミュンヘン協定 イギリス、フランスに見捨てられる
第1次世界大戦は終結しますが、その後ドイツではヒトラーが政権を握り、再び反撃をみせはじめます。
ドイツはチェコスロバキアのドイツ系住民が暮らズテーテン地方の帰属を求めました。
これにたいし、イギリス・フランスはヒトラーとの対決を避けたいがために、チェコスロバキアを防衛することなくドイツに領土を割譲するミュンヘン協定をチェコスロバキアの意向を取り入れることなく勝手に締結したのです。
ソ連への傾斜
その後、第2次世界大戦が開戦し、枢軸国[ドイツ、イタリア]vs連合国[イギリス、フランス、ソ連など]の戦いとなります。
チェコスロバキアは連合国側として戦い、連合国は勝利します。
チェコスロバキアは戦争中からソ連が優位であることを確信し、ソ連との友好関係維持に努め「ソ連・東欧圏」の一員となりました。
イギリス、フランスにたいしては、ミュンヘン協定の不信があったからです。
「東西の架け橋」
戦後は、欧米諸国とも貿易などで関係を深め「東西の架け橋」的な存在になります。
特徴3 ソ連(ロシア)に自由化政策「プラハの春」をつぶされた経験をしている。
「プラハの春」
チェコスロバキアは経済状況の悪化などで、政権が倒され、ドプチェク共産党第1書記を中心とした改革派による「人間の顔をした社会主義」をめざす政治・経済改革が行われました。
これを「プラハの春」といいます。
ドプチェク
チェコスロバキア事件 「プラハの春」つぶされる
燃えるソ連の戦車と国旗を掲げるチェコスロバキアの人々
「プラハの春」が東欧圏に拡大することを恐れたソ連は東欧圏を含めた5カ国(ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド)を率いて軍事介入し、チェコスロバキア全土を占領しました。
これにより「プラハの春」はつぶされ、改革派は追放され、またもとのソ連寄りの保守的共産党政権に戻ったのです。
ビロード革命。チェコ共和国、スロバキア共和国の成立
1989年、チェコスロバキアで民主化運動が広がり共産党政権が崩壊、民主政権が成立します。これをビロード革命とよびます。
ビロード革命。プラハでのデモ活動(1989年11月25日)
自由化により、スロバキア人の自立への要求が高まり、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離しました。
両国ともNATOに加盟しました。
チェコ 1999年 | スロバキア 2004年 |
チェコ、スロバキアの真骨頂
・古くは西欧、現在NATO加盟国でありながら、東側の風味をもつ。
・元東欧圏なので武器はロシア製を使用しておりウクライナも使いやすい利点もある。
今回の戦車、地対空ミサイルの供与はチェコ、スロバキアならではの役割だったのではないでしょうか。