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李舜臣って誰?どんな人?

2018年10月11日、韓国南部の済州島で国際観艦式が開催されました。
韓国は事前に日本に自衛艦旗である旭日旗の掲揚を控えるように要求しました。
日本はこれを受け入れず観艦式には参加しない対応をとりました。

その観艦式で韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が駆逐艦で演説をした際、李舜臣(イ・スンシン)将軍に触れ李舜臣将軍が使ったものと同じデザインとされる旗を掲げていたことがニュースになりました。

NHKニュース映像より

文大統領はこの旗について「未来の海洋強国への意志を表明したもの」と説明していたということです。

李舜臣将軍は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に中心となって日本を撃退した戦歴の持ち主で韓国では水軍の英雄として今も高い人気を集めています。
韓国国内では各地に銅像が建てられています。

秀吉の朝鮮出兵と李舜臣将軍の活躍はどのようなものだったのか、まとめます。

秀吉の明征服計画

朝鮮出兵まで

羽柴秀吉は1590年、最後の大物小田原の北条氏を滅ぼし東北の伊達政宗を配下におさめ天下統一を成し遂げました。
秀吉は次に狙ったのが、東アジア地域です。
東アジア地域は南蛮貿易が盛んで、マカオがポルトガルとの中継地であったり、マニラがスペインとの中継地であったり交易の中心でした。

秀吉は弱体化していた明にとってかわって東アジアを日本中心の秩序に収めようと考え、明を攻略しようと計画したのです。

秀吉は明攻略のために、朝鮮に先導させようと考えていました。
秀吉は朝鮮は対馬の従属国とみなしていたのです。

ところが、そんなわけはありません。
朝鮮は明に朝貢している明に認められた国です。
また対馬を治めていたのは宗義智ですが、対馬は朝鮮との交易によって経済と生活が成り立っている国でした。

秀吉はそんなことはおかまいなしに、宗氏に「朝鮮国王を日本に服属させてこい」といいます。

この勝手な思い込みによる自信があってこそ、日本統一に至ったのだろうと想像できますが、まさか朝鮮に「明を攻略するから日本の下に入れ」と伝えろといわれても、宗氏もはいそうですかと動くわけにはいきません。

宗氏はなんとか嘘を入れながら双方とりもちますが、朝鮮は明への先導は受け入れず、秀吉は勝手に朝鮮は服属したものと合点して、日本全国の大名に明征服の動員をかけ朝鮮へ出兵したのです。

第1次出兵[文禄の役。韓国名=壬辰倭乱(じんしんわらん)]

1592~1593年。
第1次出兵は、朝鮮を明を攻めるための足場として固めることが目的でした。
米を徴収したり明への道を確保するための侵入です。
第1陣=小西行長・宗義智、第2軍=加藤清正(肥後熊本藩)、第3軍=黒田長政(筑前福岡藩)ら。
小西行長は肥後(熊本)宇土城主で宗義智は娘婿、その縁で連係しています。
朝鮮出兵では秀吉に次ぐメインプレイヤーの一人です。

李舜臣将軍の登場

李舜臣の戦い

当初日本軍は破竹の勢いで進み、朝鮮水軍は壊滅しかかっていました。
そこに投入されたのが李舜臣将軍です。
李舜臣は海軍司令官として隊を整え要所要所で日本軍を迎え撃ちます。

亀船

一連の戦いの中で登場したのが「亀船」です。
亀船は李舜臣を象徴する戦艦です。
水軍の戦いは船を相手船に近づけ乗り移って船を乗っ取る戦い方が多く採られます。
亀船は李舜臣と船大工が開発した新型船で、船をトゲトゲのドームで覆い乗り移られないようにして攻撃だけができるように設計されたものです。
ドームが亀の甲羅のようにみえるので亀船と呼ばれました(後に亀甲船と呼ばれるようになります)。

これら戦艦や潮流を読むことなどで日本軍を追いこんでいきました。

和議に反発

数カ月後、明が救援に乗り出します。
日本が敗北する場合もあり、明が敗北する場合もありで、日本・明双方から和議の気運が高まってきます。

この時李舜臣は「不倶戴天の敵である日本軍を1艘も返さずの意気で戦っている! 日本が和議する様子はない」と反発します。

日本・明の和議から第2次出兵

和議ならず

秀吉の和議の条件は
・朝鮮の半分を日本に割譲せよ。
・朝鮮王子を人質として日本に送れ。
・朝鮮の大臣は日本に背かないと誓え。
など無理筋な内容でした。
明側も日本側も担当者レベルで偽の使者をたててなんとか収めようと画策しましたが、最終的に破たんし、秀吉は朝鮮王子がお礼にこない!と激怒。
再び朝鮮出兵を決めたのです。

第2次出兵[慶長の役。韓国名=丁酉倭乱(ていゆうわらん)]

1597~1598年。
第1次出兵が明を攻めるための足場として固めることが目的でしたが、第2次出兵は明征服は挫折したものの、諸大名に恩賞を与えるために朝鮮半島の南半分の奪取をめざすものでした。

この戦いで、相手の鼻の数で戦功の証明がなされるようになりました。
この鼻は塩漬けにして樽に詰められ、秀吉に送られました。
秀吉は朝鮮兵の供養として鼻塚をつくり弔いましたが、実際、多くは一般民衆の鼻でした。
今は耳塚とよばれ方広寺近くに現存しています。

説明書き↓

方広寺といえば、豊臣秀頼が造営した梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が”徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とするものだ”と家康に激怒された梵鐘が設置されているお寺です。
方広寺の梵鐘。ちょっと読みづらいですが。

方広寺近くには秀吉が祀られている豊国神社があります。
地図はこちら

李舜臣投獄される

日本軍の第2次侵攻に際し、李舜臣は日本の情報を深読みしすぎて加藤清正を上陸させてしまう失態をおかしました。
この罪で李舜臣は海軍司令官の位をはく奪され投獄されてしまいます。
朝鮮水軍にはもう一人元均という猛者がいました。
李舜臣の後を元均が任命されます。

元均は李舜臣のやり方を全て変えて戦闘に臨みましたが、日本軍の襲撃に敗れ戦死しました。
朝鮮水軍は壊滅状態に陥ります。
そしてここで李舜臣が再び海軍司令官に任命され水軍を立てなおします。

李舜臣再任そして戦死

李舜臣は兵士たちに決死の覚悟で戦うよう軍律を厳しくし一気に巻き返しを図ります。
1597年9月鳴梁海戦では兵船13隻で日本軍133隻を撃破します。
圧倒的に数で劣る朝鮮水軍は日本と正面で戦うのは無理だと考え、潮流が西から東へ変わるタイミングを利用した戦法でした。

1598年8月、秀吉が病気で亡くなります。
これをうけ徳川家康、石田三成らは日本軍撤退を決めます。

撤退を決めた後も戦闘は継続していて、1598年11月、露梁海戦で島津勢の発した銃弾が李舜臣に当たり絶命しました。

「乱中日記」

文禄の役、慶長の役は事柄の日付がはっきりしているのが特徴です。
これは、李舜臣が自身で書いていた「乱中日記」が存在しているからです。
「乱中日記」は戦闘状況の記録、気候、庶民の暮らしなどについてしっかりとした文章で書かれたもので、現存しています。
2013年ユネスコの世界記録遺産に登録されています。

(韓国文化財庁ウェブサイトより)

日本でも平凡社から『乱中日記 壬辰倭乱の記録 (東洋文庫) 』1~3巻が発売されています。

思わぬところに亀船

李舜臣将軍は頭脳派で勇猛、かつ人々へのまなざしの温かさで、兵士や民衆からの尊敬を集め、今に至っても英雄として祀られています。

今回、韓国は各国に対し「それぞれの国旗と韓国の国旗以外の掲揚は認められない」と通達したわけですが、国旗ではない李舜臣将軍由来とされる旗がこの場で掲揚されたことに李舜臣はどんな気分なのでしょうか。
倭人のわたしがいうのもなんですが・・・。

もひとついうと、平昌オリンピックの開会式で3D画像が上空を流れて行く演出で、亀船の映像がありました。
オリンピックになぜ?と思いました。

その平昌オリンピック、スピードスケート女子500メートルでは、金メダルの小平奈緒選手と銀メダルの李相花選手がお互いの国旗を手に体を寄せ合ってリンクを周回する二人の友情が感動を呼ぶシーンがありました。
亀船の残像も吹き飛ぶ本当に素晴らしい場面で、何度見てもいいですね。


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