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ペリーと小笠原諸島

「ペリー浦賀で人は混み」でおなじみの、アメリカのペリー提督の黒船艦隊浦賀来航が1853年。
ペリーはその少し前に小笠原諸島の父島を踏査しています。

その当時、小笠原諸島の領有権ははっきりしていませんでした。
住民は欧米やハワイなどの出身者で、日本やイギリスが領有権を宣言したものの、放置された状態にあったのです。

ペリーは住民から貯炭用の土地を購入するなど領有に関心を持っていました。
ペリーは、小笠原諸島がアメリカと中国を行き来する際に停泊所や給炭所として大変便利な位置にあると、大きな魅力を見出していたのです。

小笠原諸島をめぐってイギリスとアメリカのこぜりあいもあったりで、日本もおちおちしていられない状況になります。

1862年、咸臨丸が小笠原に派遣されます。
主なメンバーは外国奉行・水野忠徳、そして通弁方に中浜万次郎(ジョン万次郎)。

水野らは住民に「日本政府が保護するので、日本に従ってね」と誓約書を交わし、1876年、日本による領有を欧米列国に通告します。
そして、内務省小笠原出張所を設置し、小笠原諸島は日本領となったのです。

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