ユダヤ人はどこからなぜパレスチナに移ってきたのか。
パレスチナ問題は、パレスチナ人が住んでいるパレスチナの地にユダヤ人が多数移住してきたことから起こった問題です。
ユダヤ人はどこからやってきたのでしょうか。またなぜパレスチに移住してきたのでしょうか。
「ユダヤ人はどこからやってきたのか」については、ユダヤ教の聖書、旧約聖書に書かれている大昔、紀元前千数百年くらいに遡る話です。そして
「なぜパレスチナに移住してきたのか」は比較的最近の、大国が帝国主義で領土を拡大する19世紀以降の話になります。
ユダヤ人の長い長い波乱万丈の歴史を前編「旧約聖書の時代」、後編「帝国主義、世界大戦の時代」の2部で超コンパクトにまとめます。
旧約聖書の時代
「ユダヤ人はどこからやってきたのか」。
それはヨーロッパや中東地域、ロシアなどさまざまな国からです。
ユダヤ人は”外国”でそれぞれ暮らしていました。
日本人は日本に、フランス人はフランスに住んでいるのが一般的であることを考えると不思議なことです。
ユダヤ人はユダヤ人の国を持っていなかったのです。
ですが旧約聖書に書かれている大昔、紀元前10世紀頃にはユダヤ人の国があったのです。
それが、パレスチナの地にあったイスラエル王国です。
イスラエル王国はユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための国で100年くらい続きました。
有名な王様に2代目王・ダビデがいます。
現在のイスラエルの国旗の中央にあるマークはこのダビデの盾をモチーフとしたものです。
2019.07.08
イスラエル王国とは
19世紀末、ユダヤ人の国をつくろうという機運が高まりました。 参照 >>>「シオニズムの誕生」 その時ユダヤ人が候補地としてパレスチナに目を付けたのは、「ここに大昔、イスラエル王国があった」と信じられていたからです。 イスラエル王国については、ユダヤ教の聖書、旧約聖書に書かれています。...
イスラエル王国は3代目王の後分裂し外国勢力との戦争で敗れ消滅しました。
その後も、ペルシャ、ギリシャなどの支配下でユダヤ人の王国は続いていました。
しかし、ローマ帝国に攻撃された際、エルサレムが陥落しユダヤ人の王国は消滅しました。
その後ユダヤ人はパレスチナにだけに留まらず、散り散りになって他国に移り住むこととなったのです。
2019.07.23
パレスチナ問題を理解するための旧約聖書 ③カナンへの侵攻、イスラエル王国の建国。
シリーズ回 年 メインプレーヤー 特長 現代につながるトピック ③ ヨシュア モーセの後継者。 カナン(現在のパレスチナ)に侵攻して定住。その土地を12部族で分配した。 BC1004 ダビデ王 イスラエル王国の2代目王。勇者。 エルサレムを...
ユダヤ人受難の時代の始まりです。 シリーズ回 年 支配国 状況 現代につながるトピック ④ BC931 イスラエル王国、南「ユダ王国」北「イスラエル王国」に分裂 BC722 アッシリア 北「イスラエル王国」を滅ぼす。 BC587 バビ...
以降、ユダヤ人は散り散りになった先の国でシナゴーグ(集会所)をつくり、旧約聖書とシナゴークを中心とした共同生活をおくりユダヤ人としてまとまって暮らしていったのです。
帝国主義、世界大戦の時代
散り散りになって”外国”で暮らしていたユダヤ人がパレスチナへ移動してきた背景にはおおまかに二つの理由があります。
理由1:ユダヤ人は”外国”で迫害されがちだった。
理由2:世界大戦で国境が動くタイミングでパレスチナの地にイスラエル王国を復活させようとする運動が盛んになった。
この流れを詳しくまとめます。
迫害されるユダヤ人
19世紀、世界は帝国主義の時代になります。
工業力の進んだ先進国は軍事力を駆使して、弱小国を制圧し植民地を拡大していきました。
国家の枠組みが新しく形成されるにつれ、そこに暮らす人々の間で民族の意識が高まってきました。
「ドイツに住んでいるのはドイツ民族である」とか、逆に「フランスの植民地になってしまったけれど、アラブ民族なのだ」というような考え方です。
そんな空気のなか、ユダヤ人を差別する動きが激しくなってきました。
ユダヤ人はこれまでも差別の対象となっていましたが、ロシアでは国家権力がユダヤ人を虐したり、フランスではユダヤ人の大尉がスパイの冤罪をきせられたりする事件が起こるなどユダヤ人の迫害が強まってきたのです。
シオニズムの誕生
スパイ冤罪事件を取材したドイツの新聞記者でユダヤ人のヘルツルは、ユダヤ人にたいするしうちに衝撃を受け、この環境を変えなくてはならないと行動を起こしました。
それまでも、ユダヤ人によるユダヤ人の国家をつくろうという動きは各地で見られていましたが、ヘルツルはユダヤ人国家の建設を呼びかけこれらを一つの運動にまとめたのです。
イスラエル王国があったパレスチナのエルサレムにシオンの丘とよばれる場所がありました。
そのため、エルサレムは別名シオンとも表現されます。
ヘルツルのユダヤ人国家建国の考えは、エルサレムを我が土地に!「シオンの丘に帰ろう!」をスローガンに広がり、シオニズムとよばれるようになりました。
1897年の頃です。
シオニズムを実現するべく行動する人をシオニストといいます。
ヘルツルがユダヤ人国家建設を呼びかけても、ユダヤ人全員が賛成したわけではありませんでした。
パレスチナへ移民してくる人もはじめのうちは小人数でした。
移民はむしろ、アメリカや他のヨーロッパ諸国へ向かう場合が多かったのです。
しかし、第1次世界大戦、第2次世界大戦の勃発で、激しくなった迫害から逃れパレスチナへ移動するユダヤ人は徐々に増えました。
第1次世界大戦
20世紀に入り第1次世界大戦が勃発しました。
第1次世界大戦は、ドイツとフランスのにらみあいと、大帝国・オスマン帝国の弱体化によるバランスの崩れをきっかけに始まった戦争です。
イギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国と、ドイツ、オーストリアを中心とした同盟国が争いました。
結果は連合国の勝利です。
サイクス・ピコ協定
第1次世界大戦終盤、勝ちが見えてきたイギリスとフランスは滅びゆくオスマン帝国の領域をどう分配するかの話し合いを行いました。
東アラブについては下図のように密約がかわされました。
この分け方はイギリス代表Mr.サイクスとフランス代表ムシュー・ピコによって決められたのでサイクス・ピコ協定とよばれます。
1916年のことでした。
この時、パレスチナ地域については次のような取り決めがなされました。
・パレスチナ南部:イギリス。
・パレスチナ北部:国際管理地域。
一方で、イギリスはパレスチナ地域についてユダヤ人と別の約束をしていました。
バルフォア宣言です。
バルフォア宣言
パレスチナ地域に自分たちの国をつくりたいユダヤ人は、イギリスに賛成してもらおうと強く働きかけました。
中心となって交渉したユダヤ人はイギリスに移民して成功した政治家と、同じくイギリスで成功し大富豪となっていたロスチャイルド卿でした。
一方イギリス側は外相のバルフォアでした。
バルフォアは説得に応じ、イギリスはパレスチナにユダヤ人が国をつくることを支持し、応援する旨、ロスチャイルド卿宛に書簡を出しました。
これがバルフォア宣言です。
1917年のことでした。
イギリスがなぜバルフォア宣言を認めたのか、真相は謎だそうです。
「この地域にフランスの影響が残るよりは、ユダヤ人に渡しておいた方がユダヤ人はイギリスの味方になるからイギリスにとっても都合がよい」という理由や、シンプルに「イギリスの首相がユダヤ人は金持ちだからそれに期待した」などの理由があるようです。
バルフォア宣言には「パレスチナに住んでいるアラブ人の市民権、宗教的権利を奪うことはない」と書かれてありましたが、もともと住んでいるアラブ人にとっては部外者の勝手な言い分で、抗議が沸き起こりました。
この頃からパレスチナへ移住するユダヤ人は増えてきました。
パレスチナ、イギリスの委任統治下に
バルフォア宣言があったからといって、すぐにユダヤ人国家ができるわけではありませんでした。
バルフォア宣言の1年後1918年に第1次世界大戦が終わりました。
勝者はイギリス、フランスなどの連合国。
敗者はドイツ、オーストリア、オスマン帝国などの同盟国です。
ここで改めて戦勝国の間で敗戦国の領土の分配についての話し合いが行われました。
パレスチナ地域はオスマン帝国の領土でしたので、イギリス、フランスによって分配されることになりました。
以前、イギリス、フランスの間で結ばれたサイクス・ピコ条約では、パレスチナ地域の南部はイギリス勢力圏、北部は国際管理地域とされていました。
ですが、最終的にはイギリスの押しで全域がイギリスの委任統治領ということに決まりました。
イギリスはほとんどの地域を占領していたので強い発言権があったのです。
ユダヤ人移民の増加
ヘルツルがイスラエル王国復活をめざす以前からパレスチナに移り住むユダヤ人はいました。それが第1次世界大戦のころから増大しました。
移動してきたユダヤ人は、パレスチナの土地の購入を進め街を建設したり、産業を振興したりしていきました。
パレスチナのアラブ人にとって、それは脅威でした。
この頃からパレスチナのアラブ人とユダヤ人との間には衝突が発生していました。
そして第2次世界大戦の時代、ユダヤ人が世界で大注目を集める状況が発生します。
ホロコーストです。
ホロコースト
ホロコーストは、第2次世界大戦中、ドイツの総統ヒットラーがユダヤ人にたいして行った大虐殺です。
ヨーロッパでは古くからユダヤ人を差別する意識が流れていました。
ヒットラーも一般党員としてナチに入党した頃からユダヤ人にたいして排除の姿勢を持っていました。
戦況が進みドイツの占領地帯が拡大するにつれユダヤ人も増えるわけで、排除では収まらず殺害に発展していきました。
ナチ政権はさらにエスカレートさせ、ユダヤ人を収容所に移送して殺害することをシステム化し大量虐殺を行いました。
この大量虐殺をホロコーストとよびます。
第2次世界大戦終盤、ドイツが劣勢になりこの大量虐殺が連合国の間で知れ渡ることになりました。
戦争が終わると生き残ったユダヤ人は難民となってパレスチナをめざしました。
しかし、難民問題は、いつの時代も受け入れ側に問題が生じます。
パレスチナでは、すでに移民してきていたユダヤ人ともともと住んでいたアラブ人との間での軋轢が強まっていて、統治していたイギリスがこれ以上のユダヤ人の受け入れを認めませんでした。
そのため、ユダヤ人難民はドイツやオーストリアに流れて行きました。
ドイツ、オーストリアは敗戦国でしたから、アメリカ軍の管理下にありました。
アメリカ軍は流れてきたユダヤ人難民を保護する負担を負うことになりました。
ユダヤ人難民が増大するにつれアメリカ軍も負担に耐え切れなくなり、イギリスにユダヤ人をパレスチナに受け入れるよう要請するようになりました。
ホロコーストの残酷さの衝撃と、難民となってさまようユダヤ人の状況をシオニズムのユダヤ人は欧米社会に訴え、ユダヤ人国家は必要であるという空気を形成していきました。
これによりユダヤ人移民は急増しました。
ですが、パレスチナのアラブ人にとっては関係のない話です。
パレスチナのアラブ人はアラブ人の国としての独立を求め、ユダヤ人移民の増加には強く反対しました。
ユダヤ人移民とパレスチナのアラブ人の対立は激しさを増しました。
パレスチナ地域の”荒れ”と他国からの圧力に、委任統治をしていたイギリスはこの問題解決は手に負えず、パレスチナ地域を放棄、国連に投げました。
これを受け、国連は1947年国連パレスチナ分割決議で、この地域をアラブ人国家とユダヤ人国家に分ける提案を行ったのです。
この後1948年にイスラエルが独立宣言を行い、「イスラエル国」が建国されました。これをアラブ人は認めず、中東戦争が始まることになります。
【監修:立山良司(防衛大学校名誉教授)】