イスラエル王国とは
19世紀末、ユダヤ人の国をつくろうという機運が高まりました。
参照 >>>「シオニズムの誕生」
その時ユダヤ人が候補地としてパレスチナに目を付けたのは、「ここに大昔、イスラエル王国があった」と信じられていたからです。
イスラエル王国については、ユダヤ教の聖書、旧約聖書に書かれています。
旧約聖書には、天地創造から始まって、ユダヤ人ができるまで、ユダヤ教の誕生、イスラエルの創世記、イスラエル王国の建国から滅亡、ユダヤ戦争などについて書かれています。
そしてこの内容は、現代のユダヤ人に脈々と刻み込まれ行動の基礎となっています。
考古学的に証明されたものばかりではありませんが、この物語を信じて人々が人生を送っているということが大切です。
イスラエル王国はどのような国だったのかをまとめます。
イスラエル王国とは
イスラエル王国はユダヤ人によって建国された国です。
紀元前1000年頃に成立しおよそ100年で崩壊しました。
王は3代いて、初代がサウル、2代がダビデ、3代がソロモンです。
サウル、王になる
初代サウルはイスラエル王国用の土地を確保するために、もともと住んでいたペリシテ人と戦いました。
ペリシテ人のなかでも最強の戦士にゴリアテがいました。
ゴリアテは強敵でユダヤ人は恐れていました。
ある日、ダビデが戦場に行きました。
その頃ダビデは戦士ではなく羊飼いで、戦場の兄に食料を届けたのです。
ゴリアテがユダヤ人を挑発すると、ダビデが「自分は神の名のもとに戦うのだ」とその喧嘩を買いました。
ダビデはゴリアテに向け、石を飛ばしました。
50センチほどの二つ折りにした布の先端に石をいれ、ハンマー投げのようにぐるぐるとまわして遠心力で強く遠くに飛ばします。
石はゴリアテの額を直撃しゴリアテは倒れ死にました。
この戦いは「ダビデとゴリアテ」として聖書でも名場面の一つで、絵画など芸術でも表現されています。
超有名なミケランジェロ作のダビデ像はダビデがまさにゴリアテに石を投げつけようと狙っているところです。
この投石方法は実用的で、1987年のインティファーダでパレスチナの若者がイスラエル軍に投石する際、このやり方が実際に用いられました。
そして、その状況はパレスチナ人をダビデに、イスラエル軍をゴリアテに例えられ「ダビデとゴリアテの再来」といわれました。
「インティファーダ」についてはこちら >>>
ペリシテ人は退散し、ユダヤ人が勝利、サウルが初代王となりました。
サウルの死後、ダビデが王になりました。
ダビデ王の時代
ダビデ王はイスラエル王国が初期の立ち上げ状態だったところを王国としてまとめあげました。
ダビデのポイントとなる功績は二つあります。
一つめは、首都をエルサレムに定めたこと。
もともと暮らしていた人々を征服して首都にしました。
二つめは、ユダヤ人にとって重要な神との契約が彫られた石板の入った箱(契約の箱)を安置したことです。
ダビデは勇猛な王として人気が高く、現在もエルサレムにダビデが埋葬されているとされるダビデ廟があり、信者が礼拝に訪れています。
掛けられている布はいくつかの種類があり、下のものはダビデの盾がモチーフとされるダビデの星があしらわれています。
この星マークは現在のイスラエル国旗に用いられています。
ソロモン王の時代
ダビデが亡くなると、その子ソロモンが3代目王になりました。
ソロモンは智恵者で商業を重視する王で、この時代は軍事的にも経済的にも文化的にも繁栄し「ソロモンの栄華」といわれます。
ソロモン王の大きな功績として神殿と宮殿の建設が挙げられます。
ダビデが安置した契約の箱を納める神殿が必要だったのです。
宮殿は王の住まいであり、外交の舞台・迎賓館でもありました。
イエメンからシバの女王も訪れたそうです。
ソロモン王の死後、イスラエル王国は南北に分裂し、やがて消滅します。
【監修 立山良司(防衛大学校名誉教授)】
2019.06.26
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