ネタニヤフ政権継続、その意味をわかりやすく
2019年4月9日、イスラエルで総選挙が行われました。
政権交代ならずで、現在の首相ネタニヤフの継続が確定しました。
ネタニヤフが率いる政党はリクードです。
リクードはこの20年間ほぼ勝利を挙げ政権を続けています。
リクード政権が初めて誕生したのは1977年です。
それ以前、主流だったのは労働党です。
労働党は1948年にイスラエル国が誕生してから1977年の政権交代までずーっと政権を担っていました。
イスラエルは第2次世界大戦後に人工的に作られた国という特殊な事情を持つ国です。
それだけに、国の形をどのようにするかという点で1枚岩ではなく、労働党とリクード、この二つの政党の考え方にははっきりとした違いがあります。
目次
労働党の考え方
労働党を支える人たちは、建国前、ヨーロッパからパレスチナの地へ難民や移民となって移り住んできた人たちです。
“とにかく、安全な場所を確保して安心して暮らしたい。だから、ユダヤ人の国ができさえすればよい。
国連によるパレスチナ分割案も受け入れる。”
という考えで、第1次中東戦争では、独立国としての成立をめざしパレスチナと戦い国連分割案より広い土地を獲得しました。
リクードの考え方
一方、“そもそもパレスチナは大昔カナンとよばれていて、紀元前12世紀にはすでにユダヤ人が住み始めていたのだ。
紀元前11世紀にはソロモンを王とするイスラエル統一王国があったのだ。
その頃からヨルダンの方までもユダヤ人が住んでいたのだ。
パレスチナ全土は当然ユダヤ人のものであり、国連によるパレスチナ分割案は到底受け入れられない。そのためにはテロをもいとわない”
と考える組織がありました。
これがリクードの前身です。
この組織には地下軍事組織があり、その実行部隊のリーダーが初代リクード政権の首相、ベギンです。
ネタニヤフ首相の先輩です。
リクードの登場
1948年のイスラエル国成立以来、労働党政権が続いていましたが、1977年に初めて政権交代が起こりました。
ここで政権についたのがリクードです。
リクードが支持を集めたのは、第4次中東戦争後に労働党への国民の不満が高まったからです。
不満が高まったのはイスラエル国内に存在する格差の問題がありました。
イスラエル国内の格差
労働党は、初期の頃にヨーロッパからパレスチナに移住してきたユダヤ人に支持されていました。
この人々は教育水準が高く指導的な地位にありました。
一方、後追いでイスラエルに移住してきた人々にイスラム諸国出身者がいました。これらの人々は商店主など主にブルーカラーの労働者でした。
この先発組と後発組に格差が存在していました。
イスラエルのユダヤ人とひとくちに言っても、皆が平等な生活水準にあるわけではありませんでした。
先発組は1948年の独立戦争で戦って勝利したのでリーダー的地位を占めているのも自然なことでした。
ところが第2次、第3次、第4次中東戦争と続き、その度に後発組も犠牲者を出していくうちに、労働党の戦争指導に批判が出るようになり、これだけ貢献しているのだから自分たちにとってもよい政治を行って欲しいという考える人々が増えてきました。
その欲求に応えるように、リクードが登場します。
エリートの労働党に対し、庶民の味方リクードとしてアピールし、後発組の支持を集めたのです。
リクードのベギン首相誕生
リクードは1977年6月の選挙で勝利し、政権を担います。
首相はベギンです。
ベギンは先にもあるように次のような考えを持つ人です。
“そもそもパレスチナは大昔カナンとよばれていて、紀元前12世紀にはすでにユダヤ人が住み始めていたのだ。
紀元前11世紀にはソロモンを王とするイスラエル統一王国があったのだ。
その頃からヨルダンの方までもユダヤ人が住んでいたのだ。
パレスチナ全土は当然ユダヤ人のものであり、国連によるパレスチナ分割案は到底受け入れられない。そのためにはテロをもいとわない”
これに加え、1967年の第3次中東戦争で占領した土地も当然イスラエルの領土であり、「パレスチナ国家は許さない」という立場を堅持していました。
しかし、パレスチナには強硬なベギンもエジプトとは和平を結びます。
それは次の理由からです。
労働党、リクードそれぞれのパレスチナ和平
これまでイスラエルとアラブ諸国の間には二つの大きな和平の動きがありました。
一つは、キャンプデービッド合意、
もう一つは、オスロ合意です。
キャンプデービッド合意
第4次中東戦争後の1978年にイスラエルとエジプトの和平に向けての合意です。
リクードのベギンが結びました。
ベギンの狙いは、アラブ諸国のうち軍事的に強いエジプトをアラブ諸国から引き話すことにありました。
また、エジプトのシナイ半島で戦わなくてよくなれば、戦力をパレスチナ地域に集中できるという利点もありました。
オスロ合意
1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構の間の和平に向けての合意です。
労働党のラビンが結びました。
これまでイスラエルは「集団で襲ってくるアラブ諸国の攻撃から弱い立場の自国を守る」という意識でいましたが、この意識をがらりと変えるできごとがありました。
インティファーダとよばれるパレスチナ人の抗議活動です。
占領地で暮らすパレスチナ市民が、イスラエル軍人に石を投げたりタイヤを燃やして交通を妨害したりなど、非武装の抵抗運動を行い、これが広がりました。
イスラエルはこれを武力で鎮圧し、その様子がテレビ中継されて世界にイスラエルの横暴さが印象づけられました。
これでアメリカのユダヤ人からも非難が出るようになり、アメリカが和平へのりだしたのです。
合意といっても、問題の具体的な解決はなくそのまま、停滞しています。
イスラエル政府は合意を無視してパレスチナ人の土地に都市開発を進め、ユダヤ人の移住を推進しています。
最近のイスラエル政党事情
ここ20年ほどリクードが支持を集めています。
一方労働党はすっかり後退しています。
現在は労働党とリクードの中間の立場をとる政党「青白連合」が伸びて来ています。
パレスチナを全面的に認めたくはないけれど、強硬姿勢を示して争うとなれば家族が戦争に行く可能性もあります。それは嫌だという考えを持つ人もいるわけです。
2019年現在の主な政党とパレスチナ問題についての立場は次の通りです。
選挙前はリクードのネタニヤフは汚職疑惑が持ち上がっていて負けるとの見方もありましたが、僅差とはいえ次点の「青と白」を抑え最多議席を獲得しました。
中東和平の停滞が続きそうです。
ネタニヤフが勝利した要因の一つには、外交の成果があるとみられています。
アメリカのトランプ大統領がゴラン高原にイスラエルの主権を認めたことがネタニヤフの支援になったのです。
2019.03.31
ゴラン高原
2019年3月25日、アメリカのトランプ大統領はゴラン高原に対するイスラエルの主権を認める大統領令に署名しました。 イスラエルの首相ネタニヤフは大絶賛、アラブ諸国・イランが大反発しています。 ゴラン高原はどういった場所なのか、パレスチナ問題の流れとその時々のアメリカの態度に焦点をあててま...