イギリス、イングランドの関係 まとめ
イギリスの正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国です。
国連など一般的には一つの国と数えられますが、サッカーのFIFAワールドカップではイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドそれぞれがFIFAに加盟して戦っています。
この四地域と国の関係はいったいなんなのでしょうか。
なぜこのようになっているのでしょうか。
これについてまとめました。
目次
1 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の意味
イギリスは、もともと国だった四つの地域が合同してできています。
イングランドとウェールズとスコットランドが一緒になってグレートブリテンに。
グレートブリテンと北アイルランドが一緒になって、現在の国名になりました。
合同とはいえ、イングランドが最強で”対等合併”ではないため、他の地域の住民感情は決してフレンドリーというわけではありません。
近年では2014年にスコットランドがイギリスから独立するかどうかの住民投票が行われたニュースも注目を集めました。
ではこの地域はなぜ四つで、どのように合同していったのでしょうか。
2 なぜ四つなのか
ブリテン島にはもともとブリテン人が暮らしていましたが、ヨーロッパ大陸から近いので”あちらこちらから侵入”されます。
その影響で人の移動が起こり、北のスコットランド、中央のイングランド、西のウェールズに分かれやがて国として統一されます。
スコットランドには、アイルランドからわたってきたスコット人が移り住んだ地域です。
なのでアイルランドはブリテン島と深いつながりをもっています。
これが四つの理由です。
もう少し詳しく、“あちらこちからの侵入”から統一王国成立までをまとめます。
-1.あちこちからの侵入
1) ローマ帝国が侵攻 スコットランドとイングランドが分断。 |
ブリテン島にはブリテン人が住んでいました。
紀元43年、ローマ軍がブリテン島にやってきます。そしてイングランド全土を征服しました。
スコットランドへも侵攻しましたが、支配は叶わず、逆にスコットランドからの侵入を阻止するために防壁を築きました。
ここでスコットランド側とローマ側に分断されることになりました。
防壁はハドリアヌスの防壁といい、現在も跡が残っていて1987年にはユネスコの世界文化遺産に認定されています。
2) ゲルマン民族part1(アングル人、サクソン人、ジュート人)が侵攻 もともと住んでいたブリテン人がウェールズに移動。 |
5世紀、今度はブリテン島にゲルマン民族がやってきます。
ゲルマン民族は住む地方によって様々な呼び名が存在しますが、ブリテン島を占拠したのはヨーロッパ大陸からの主にアングル人、ジュート人、サクソン人です。
アングル人が住み着いた土地は「アングルランド」と呼ばれ、それが「イングランド」となりました。
ゲルマン民族の占領によって、これまで暮らしていたブリトン人は西のウェールズや北方へ追いやられました。
ゲルマン民族はイングランド、ブリトン人はウェールズの分断の始まりです。
3) ゲルマン民族part2(ノルマン人=バイキング)襲来 イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてフランスのそれぞれ一部がノルマン人の支配下に。 |
9世紀、スカンジナビア半島やデンマークのゲルマン民族のノルマン人が襲来してきました。
カンジナビア半島やデンマークのゲルマン民族のノルマン人はいわゆるバイキングです。
一時期はイングランドの大部分がノルマン人の支配下になりました。
―2 統一王国成立
イングランド |
バイキング(ノルマン人)の襲来以来、イングランドの大部分がノルマン人支配下におかれていましたが、11世紀、再びサクソン人の王による支配が復活します。
サクソン人の王はエドワードです。
そのエドワードが亡くなります。
すると、フランスの北部を占領したノルマン人の国、ノルマンディ公国のウィリアムが「エドワードが次の王は自分に譲るといっていた」といってイングランドに攻め込んできます。
結果、ノルマン人ウィリアムが勝利し、1066年にイングランド王国の国王となります。
これが現在のイギリスの始まりとなります。
エリザベス女王は王室の歴史を語るとき「父祖ウィリアム征服王以来」とつけるそうです。
ウェールズ |
ゲルマン民族part1 の侵攻でブリテン人が流れてきてから、小さな王国が乱立し、各部族の激しい争いが続いていました。
混乱のなかイングランドの支配におかれるようになります。
13世紀、王国のうちの一つの国王サウェリンがイングランド王の娘と結婚し、王国として独立、ウェールズ大公国となります。
スコットランド |
9世紀、「アルバ王国」として初の統一国が成立しました。
アイルランドから渡ってきたスコット人が王だったといわれています。
イングランドとの国境は確定せず争いが繰り返されました。
アイルランド |
ノルマン人の支配下になって以来、イングランドの植民地となっていきます。
3 どのように連合していったのか
ウェールズ
1284年 ウェールズ大公国として独立したものの、イングランドからのプレッシャーは強く、サウェリンがイングランドに殺害され、ウェールズは制圧されました。
1536年 ウェールズ併合法公布。イングランドによる政治的・経済的保護が一層強固になり英語が公用語となりました。
スコットランド
■第1段階 >1603年 同君連合
イングランドのエリザベス1世が亡くなりました。
この頃イングランドは、フランスとの戦争や内戦で弱体化していました。
フランスへの対抗でイングランドを支援するなどイングランドとの関係性に変化があり、エリザベスは次の王に、スコットランド国王のジェイムズを指名します。
ジェームズはスコットランドとイングランド国王を兼務することとなり、イングランドとスコットランドの同君連合が成立しました。
ジェームズはゆくゆくはイングランド、スコットランド、アイルランドを一つにまとめていきたいと考えていました。
第2段階 >1707年 グレートブリテン連合王国が成立
イングランド・ウェールズとスコットランドが合同しました。
1606年に同君連合が実現しましたが、両者の間は冷え込んでいきました。
イングランドはこの関係を修復したいと考えていました。
スコットランドが敵対国のフランスと同盟関係にあったので、ここを引き離したかったのです。
一方スコットランドは経済的にイングランドの支援が必要な状況になっていました。
これを背景に、1707年 グレートブリテン連合王国が成立しました。
ここからイギリスになります。
アイルランド
第1段階 > 1801年 「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」成立
1155年頃からイングランドはアイルランドを植民地化していきました。
イングランドはキリスト教プロテスタントを国教としていました。
一方、アイルランドは北部がプロテスタント、それ以外がキリスト教カトリックの信者が多い国でした。
イングランドはアイルランドの植民地化を進めながら、カトリックを激しく弾圧していました。
18世紀になると世界では1776年にアメリカが独立、1789年にフランス革命が起こりました。
アイルランドもこの影響をうけ、独立への反乱を起こします。
関係を安定化させたいイギリスは、カトリックを認めることと引き換えにアイルランドの併合を提案し、アイルランドもこれを受け、1801年、イギリスに併合されます。
ここに「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立します。
第2段階 >「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」成立
アイルランドは再び独立に動き、1922年ついにアイルランド自由国として独立します。
アイルランドは1949年には正式に連合王国から離脱しますが、この時、プロテスタントが多く暮らす北部はイギリスの統治下に留まり北アイルランドとなりました。
これにより国名が現在のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国になったのです。
イギリス成立までの略年表
1277年 | イングランドのエドワード1世がウェールズの征服に乗り出し、大公のグリフィズを戦死させる。 |
1536年 | イングランドがウェールズを統合。 |
1606年 | スコットランド国王のジェームズがイングランドとスコットランドの国王を兼務することになり、同君連合が成立。 |
1707年 | イングランド(ウェールズを含む)とスコットランドが連合協定を結び、グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain) が成立。 |
1801年 | アイルランドの連合参加により、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)となる |
1922年 | アイルランドが独立し連合王国から離脱。しかしプロテスタントが多く暮らす北部はイギリスに留まり北アイルランドとなり、イギリスの国名はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)となり現在に至る。 |