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パレスチナ問題を理解するための旧約聖書 ④王国が分裂し消滅、大国の支配下に。そしてユダヤ人の聖書が誕生。ユダヤ人独立戦争で敗れユダヤ人の国は消滅。

ユダヤ人受難の時代の始まりです。

シリーズ回 支配国 状況 現代につながるトピック
BC931 イスラエル王国、南「ユダ王国」北「イスラエル王国」に分裂
BC722 アッシリア 北「イスラエル王国」を滅ぼす。
BC587 バビロニア 南「ユダ王国」を滅ぼす。 「ディアスポラのユダヤ人」の最初。
BC538 ペルシア ユダヤに寛大。 「旧約聖書」編纂開始。
BC333 ギリシア アレクサンダーの征服によりペルシャ滅ぶ。 民族の移動を奨励。
BC200 ローマ ユダヤ人はヘロデ王のもとで統治される。 第2神殿をリメイク。
キリスト教の成立。ユダヤ教徒、キリストを処刑。
AD66 ユダヤ敗北。ユダヤ王国は消滅し、ユダヤ人パレスチナから追放され、各地へ散らばっていく。

王国の分裂から滅亡

南北王国の時代

栄華を誇ったソロモンの時代でしたが、神殿と宮殿の建設など”公共事業”は国民の負担によって成り立っていましたので、国民の間では不満が充満していました。
そして、ソロモンの死後その不満が爆発し、国が二つに分裂したのです。

ダビデ、ソロモンは南部出身でしたので、そこから北部が離脱するという形での分裂でした。

南部の国はベンヤミンとユダの部族、北部の国はそれ以外の部族です。

南の王国が「ユダ王国」となり首都はエルサレム。
ダビデ王は南出身なので、ダビデ系の王朝です。
北の王国が「イスラエル王国」となり首都をサマリアにおきました。

北王国の滅亡

南北が分裂してからおよそ200年後、このあたりにアッシリアの勢力が迫ってきました。
北王国はアッシリアとの戦いに挑みますが、南王国はこれを助けませんでした。
結果、北王国は敗れ滅亡しました(BC722年)。

南王国は属国のような立場をとり生き残りました。

南王国の滅亡

北王国が滅亡してからアッシリアに支配される時代が百数十年続きました。
今度は新たにバビロニアの勢力が台頭し、アッシリアが滅ぼされました。

大国の支配下の時代

南王国が滅亡してから周辺の大国の勢力下に置かれる時代が続きます。

バビロニア支配下のユダヤ人

バビロニアは当初南王国を滅ぼしませんでしたが、イスラエル人が反乱を起こしたことで、エルサレムを破壊し、第1神殿も破壊しました(BC587年)。

バビロン捕囚

そして、王を始め多くのユダヤ人をバビロニアの首都バビロンに連行したのです。


これをバビロン捕囚といいます。

このバビロニア支配時代は50年ほど続き今度バビロニアはペルシャに滅ぼされました。

ペルシャ支配下のユダヤ人

捕囚のユダヤパレスチナに帰る

BC538年からペルシャの支配下になります。

ペルシャは支配の縛りをきつくせず、支配下の民族をわりあいに自由にさせる統治を行いました。
そして、連行されていたイスラエル人も多くがパレスチナに帰りました。

パレスチナに帰ったユダヤ人は大仕事を二つ実行します。

ひとつはエルサレムの神殿の再建。これが第2神殿です。
第1神殿はソロモン王が建設しバビロニアによって破壊されていました。

ふたつめは聖書をつくり始めたことです。

ペルシャ帝国は支配下の民族にたいして縛りをきつくしませんでした。
ユダヤ人についても、ペルシャの決まりごとで縛るのではなく、掟をユダヤ人自身に作らせて、それを守らせるという手法で統制をとりました。

聖書の誕生

ユダヤ人自身が作った掟がユダヤ教の聖書の核となる部分の「律法」です。
律法をまとめたのはユダヤ人でペルシャの高級官僚だったエズラです。
エズラはそれまでイスラエル民族に伝えられてきた資料や言い伝えを集め、それを編集しました。
律法は下記の5巻からなっています。
・創世記
・出エジプト記
・レビ記
・民数記
・申命記
合わせて「モーセ五書」といわれます。

ユダヤ人の発祥

ペルシャの時代、パレスチナ地区はユダヤ州とされました。
このユダヤ州に住む人々をユダヤ人というようになります。

ペルシャの時代が200年程度続き、その後ギリシャが台頭します。
アレキサンダー大王の征服です。

ギリシャ支配下のユダヤ人

BC333年からギリシャの支配下になります。

ギリシャは支配下の民族にたいして圧政をしかず、逆に民族が入り混じるような施策をとりました。

ディアスポラのユダヤ人

この体制のもと、ユダヤ人はパレスチナ以外のエジプト、シリア、アナトリア、ギリシャ、ペルシャまで広がって生活するようになりました。

パレスチナ以外に住むユダヤ人を「ディアスポラのユダヤ人」といいます。

アレキサンダー大王が病死するとこの帝国は急速に瓦解しました。

そして次に入ってきたのがローマ帝国です。

ローマ帝国時代のユダヤ人

BC63年からローマの支配下になります。
ローマ軍を率いたのはポンペイウスです。

ポンペイウスは、カエサル、クラッススと三頭政治を行ったことで有名です。

ローマの支配下ではユダヤ人は半分ユダヤ人のヘロデ王のもとで統治されました。
ヘロデ王は再建された第2神殿を豪華に造り替えました。

ユダヤ戦争

ローマ帝国の衰退

ローマ帝国は拡大の一途をたどっていましたが、次第に衰えをみせAD1世紀になると全勝といかない状況になってきました。

第1次ユダヤ戦争

そこで、ユダヤ人たちもここぞと立ち上がり、AD66年に反乱を開始しました。
初期には優勢だったものの、力及ばず最終的には敗れました。
ローマはAD77年にエルサレムを陥落し、神殿を破壊しました。

この破壊された神殿の後が現在でも「嘆きの壁」として残っています。

第2次ユダヤ戦争

AD131年、再びユダヤ人はローマに対して反乱をおこしました。
第2次ユダヤ戦争です。

ユダヤ人はローマにこてんぱに鎮圧されてしまいました。

ディアスポラのユダヤ人

その後、ユダヤ人はパレスチナへ立ち入ることを禁じられ、全員がパレスチナ以外に散らばっていきました。
これにより、ユダヤ人は本格的ディアスポラ(離散)の状態になってしまいました。

AD2世紀の頃です。

“パレスチナ”の由来

ローマは135年、この地名をパレスチナとしました。
パレスチナはもともとギリシャ人が、この地にペリシテ人が住んでいたことから、ペリシテ人の国とよんでいて、これがパレスチナとなったのです。

再びユダヤ人の国をつくろうという運動が起こるのは、近代、反ユダヤ主義の風潮が高まった1897年の頃です。
この運動をシオニズムといいます。

シオニズム >>>

 

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