ゴラン高原
2019年3月25日、アメリカのトランプ大統領はゴラン高原に対するイスラエルの主権を認める大統領令に署名しました。
イスラエルの首相ネタニヤフは大絶賛、アラブ諸国・イランが大反発しています。
ゴラン高原はどういった場所なのか、パレスチナ問題の流れとその時々のアメリカの態度に焦点をあててまとめました。
目次
ゴラン高原とパレスチナ問題
パレスチナ問題で有名な地名といえば
・ヨルダン川西岸
・ガザ地区
です。これらとおなじように重要な地名がエルサレム、そしてゴラン高原です。
パレスチナ問題の起源
パレスチナ問題は、パレスチナ地域をめぐるアラブ諸国とイスラエルの領土問題です。
下の地図は1914年時のパレスチナ地域です。この時点ではオスマン帝国の領土でした。
第1次世界大戦後の1920年にイギリスの委任統治領になりました。
イギリスの委任統治領は第2次世界大戦後の1948年まで続きました。
その前年1947年の地図が下の図です。
これまでない色分けがされています。
青がユダヤ人国家、赤がアラブ人国家、黄色が国際管理地域です。
色分けが必要になったのは、第2次世界大戦後にユダヤ人がヨーロッパから多く移り住んできたことが始まりです。
第2次世界大戦中、ドイツのナチス政権はユダヤ人を大量虐殺しました。この虐殺から逃れて難民となったユダヤ人がパレスチナの地に移動してきたのです。
人数が多くなると元から住んでいるアラブ人との間で衝突が起こるようになりました。
国際社会はナチスによるユダヤ人虐殺があまりにも悲惨なものだったことがわかるとユダヤ人に同情的になりましたが、一方アラブ人の反発も当然あります。
この問題は国連に任されることになりました。
そして、国連が引いた境界線が上の国連によるパレスチナ分割案です。
この対案はユダヤ人側に有利でした。当初ユダヤ人が所有していた土地は数パーセントだったのに、半分がユダヤ人に割り当てられたのです。
ゴラン高原
パレスチナ分割案では、1914年の地図の緑の部分が減少し、シリアの領土になっています。
ここがゴラン高原です。
1923年にイギリスとフランスの話し合いでシリアへ併合することになったというそもそもいわくつきの土地です。
ゴラン高原は標高1000メートル近い起伏に富んだ天然の要塞で頂上からはイスラエル領を遠くまで見通すことができ、砲撃の陣地にはもってこいの地形です。
中東戦争
パレスチナの領土分割をきっかけに、アラブ人(ヨルダン、シリア、エジプト、レバノン、イラク)とユダヤ人の間で大きな戦争が4度行われました。
ゴラン高原は第3次中東戦争でユダヤ人国家・イスラエルに占領されます。
第1次中東戦争
1947年の国連パレスチナ分割案に基づいて、1948年ユダヤ人国家はイスラエル国として独立宣言をしました。
これにアラブ諸国は黙っていられません。
エジプト、シリア、ヨルダン、イラク、レバノンのアラブ諸国はイスラエルに宣戦布告、第1次中東戦争が勃発しました。
当初はアラブ優勢でしたが、ヨルダンがこの機に乗じて勢力拡大をもくろんでいる疑念がもたれアラブの結束が弱まったこともあり、イスラエルが盛り返し領土拡大に成功しました。
アメリカの動き
この時アメリカはどのように反応したのでしょうか。
これにはアメリカの国内政治がからんできます。
この時アメリカでは大統領選が行われていて、トルーマンが候補となっていました。
トルーマンは人気がいまひとつで支持の拡大を狙っていました。
そこでユダヤ人の支持を必要としたのです。
ユダヤ人はヨーロッパから難民となって国外を出た後、パレスチナ地域へ移動しましたが、同様にアメリカにも多く移っていました。
アメリカ国内のユダヤ人はパレスチナ地域のユダヤ人を応援しますから、ユダヤ人の支持を得たいトルーマンはイスラエルの建国をすぐに承認しました。
アメリカがイスラエル寄りなのはこういった背景があります。
第2次中東戦争
この戦争はパレスチナ地域の地図の変更はありません。
エジプトのスエズ運河をめぐる戦争でした。
スエズ運河はヨーロッパとアジアを最短距離で結ぶ重要な運河です。
エジプトを植民地支配していたイギリスが権利をもっていて、フランスが中心となって建設したという特殊な事情をもつ地域でした。
エジプトのナセル大統領はスエズ運河の主権をイギリスから取り戻そうと考えましたが、イギリス、フランス、アメリカの拒否に合いかないませんでした。
エジプトはだったら、ということでソ連に協力を求め、一方的にスエズ運河を国有化しました。
これに対し、支配権を取り戻したいイギリス、フランスと、航行を確保したいイスラエルが手を結び、1956年イスラエルがシナイ半島に侵攻しました。
ここに第2次中東戦争が始まりました。
結果は、エジプトが勝利しました。
イギリス、フランスと組んだイスラエルの攻撃に、ソ連、アメリカが激しく非難したのです。
これにイスラエル、イギリス、フランスは撤退せざるをえなくなりました。
スエズ運河はエジプトのものになりました。
アメリカの動き
この時アメリカはイスラエルに厳しい立場をとったわけです。
この頃アイゼンハワーが大統領の座を目指していました。
アイゼンハワーはノルマンディー作戦の英雄で人気が高く、特にユダヤ人の支持を必要としていなかったのです。
第3次中東戦争
アラブ諸国とイスラエルの水問題がきっかけとなった戦争です。
イスラエルは1964年、イスラエルとシリアの国境に位置するガリラヤ湖から非難をよそに取水のための工事を始めました。
アラブ諸国は対抗する土木工事を行いました。
するとイスラエルはこの工事現場に爆撃を加えました。
そして、シリア軍が陣地をおくゴラン高原へ攻撃を繰り返したのでした。
その後もこぜりあいが続き1967年春、シリアは改めて反イスラエルの姿勢を鮮明にしました。
そして、ゴラン高原からイスラエル領内へ砲撃を開始しました。
対するイスラエルは、1967年6月5日奇襲作戦を行いました。これが第3次中東戦争です。
結果はイスラエルが勝利しました。
エジプトはガザ地区とシナイ半島を占領され、ヨルダンはヨルダン川西岸、エルサレムを占領され、シリアはゴラン高原を占領されました。
わずか6日での大勝利で、「6日間戦争」ともよばれます。
第4次中東戦争
占領地を奪還しようと、エジプトとシリアがイスラエルと戦った戦争です。
エジプトはシナイ半島、シリアはゴラン高原に展開する同時多発作戦でした。
第3次中東戦争はいったんは収束しましたが、イスラエルとエジプトの間では武力行使は続いていました。
その間エジプト大統領のナセルが病死しサダトが大統領に就任しました。
サダトはシリアのアサド大統領と顔見知りで、共闘してゴラン高原とシナイ半島の奪還作戦を決行しました。
1973年10月6日、奇襲作戦は開始されました。
シナイ半島ー当初エジプト軍が優勢でした。
イスラエルはアメリカに援助を求めましたが、アメリカのキッシンジャー国務長官はイスラエルが完勝するとアラブ諸国が和平を拒否することが予想されるので、イスラエルの支援には消極的姿勢でいました。
ところが、イスラエルは逼迫した状況で、アメリカが援助しないなら核ミサイルを使う、といってアメリカに迫り、これにあわてたアメリカは援助体制をしきました。
これでイスラエルの大反撃が成ったのです。
ゴラン高原ー両軍による死闘が繰り広げられましたが、最終的にはイスラエルに一掃される結果となりました。
ここでアメリカとソ連が登場します。
イスラエルの大攻勢に、アメリカとソ連は国連安保理で停戦決議338を成立させました。
しかし、イスラエルは攻撃を続けました。
ソ連はアメリカにこれを停止するよう求め、停止しなかったらソ連が軍事介入する姿勢を示しました。
これに対し、アメリカはソ連が介入する気ならこちらも体制をとるということで核警戒態勢を敷きました。
イスラエルは攻撃を止め、核が使われることはありませんでしたが、アメリカ、ソ連、イスラエルが核を使用する可能性が高まった事件でした。
結果、停戦となり両兵力は引き離されましたが、和平が結ばれることはありまんでした。
アメリカの動き
アメリカの大統領はニクソンでした。ニクソン大統領はこの時、自分のスキャンダル・ウォーターゲート事件を抱えていて、そこから目をそらそうと核体制までとったのでは、という見方もあります。
和平への動き
キャンプデービッド合意(イスラエルとエジプトの和平)
第4次中東戦争後、アメリカは中東の和平に動きました。
石油の問題が起こったからです。
アラブ諸国は、イスラエルを援助したアメリカに対し、石油輸出を全面的に禁止しました。
石油は中東に頼っていたアメリカ、西側諸国は大打撃を受けました。
日本の「石油ショック」はこの時です。
1976年の大統領選でアメリカ大統領に就任したカーターは当事者全員を集めて一気に解決しようとしましたがうまくいきませんでした。
そうこうしているうちに、エジプトが単独行動に出ます。
エジプトは、国内の経済状況が厳しく、強いイスラエルを撃退することは現実的に難しいと判断し、他のアラブ諸国をさしおいて独自にイスラエルと和平交渉を進める姿勢を見せました。
アメリカのカーター大統領は調停に乗り出し、イスラエルとエジプトは1979年、平和条約を締結しました。
合意の調印式はアメリカのキャンプデービッドで1978年に行われました。
イスラエルはシナイ半島から撤退しました。
これにはアラブ諸国は大反発しました。エジプトはアラブで孤立しアメリカが支援する体制になりました。
オスロ合意
衝突が続いていた中東地域に和平の訪れを感じさせたのが1993年のオスロ合意です。
イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)が和平に合意しました。
和平の内容は
・イスラエルとPLOが相互承認すること
・イスラエルが占領しているガザ地区にパレスチナ人の自治を認めること
・ 〃 ヨルダン川西岸の都市エリコで 〃
この合意でパレスチナ問題は解決の方向に向かうかと思われましたが、実際はそうではありません。
現在、イスラエルはガザ地区を囲ってガザ地区で暮らす住民の自由を奪っていますし、ヨルダン川西岸地区へのユダヤ人の移住も続けています。
トランプ大統領のゴラン高原イスラエル主権承認
上記のように、ゴラン高原はアラブ諸国とイスラエルの対立のメインのエリアです。
激しい戦闘が繰り広げられここまでおびただしい血が流された土地です。
中東地域の和平とアメリカの国内事情は常に連動していますので、トランプも同じことをしているだけという見方もできますが、エルサレム大使館移転問題とともに、このような歴史を無視するようないきなりの承認があっさり認められるはずはありません。