ユダヤ人はなぜ差別されたのか
パレスチナ問題のはじまりは「ユダヤ人がヨーロッパで迫害されたので、パレスチナの地に移ってきてユダヤ人の国をつくった」ことでした。
なぜユダヤ人は差別されていたのでしょうか。
ユダヤ人が差別されるようになったのは、大きく三つの段階があります。
1.ユダヤ教とキリスト教の宗教的な対立の発生
2.嫌悪感情から制度化へ
3.民族的な差別へ
1は1,2世紀からの話、2は1からおよそ11世紀からの話、3は19世紀からの話です。
まずは宗教的な面からまとめます。
目次
1.ユダヤ教とキリスト教の宗教的な対立の発生
ユダヤ教とキリスト教
宗教的な面からの大前提は、ユダヤ教とキリスト教の関係があります。
ユダヤ教のラビ(指導者)だったイエスはユダヤ教を批判したことで、ユダヤ教の祭司長らに裁判にかけられて十字架刑になり死亡しました。
キリスト教のユダヤ教に対する差別の起源はこの裁判の場面が鍵になります。
裁判の場面
裁判の場面は新約聖書に書かれていますが、初期に書かれた聖書と後の時期に書かれた聖書で変更された箇所があります。
初期に書かれた「マタイによる福音書」では下記のような表記になっています。
登場人物は
・キリスト
・旧体制のユダヤ教祭司長ら
・ピラト=支配国ローマから派遣されている総督
■マタイ引用
ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。 (マタイによる福音書第27章 https://www.wordproject.org/より)
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一方後の時期に書かれた新約聖書「ヨハネによる福音書」では次のような表記になっています。
■ヨハネ引用 ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた。 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。 (ヨハネによる福音書第19章 https://www.wordproject.org/より) |
つまり、初期の聖書では「旧体制祭司長らが異端児イエスを弾圧した」というユダヤ教の内輪もめの構図でした。
ところが後になると「ユダヤ教祭司長がキリスト教イエスを弾圧した」というユダヤvsキリストの構図に変わりました。
ローマがユダヤに押しつけた
実際にキリストを処刑したのはピラトでありローマです。
その二百数十年後、ローマはキリスト教を国教にしました。
初期の聖書が書かれたのが1世紀、以降国教にしていく過程で「ローマが自国国教の神を殺したのはまずい」ということで、その事実を薄めようとユダヤ人を強調して責任をユダヤ人に押しつけていったのです。
これにより、「イエス殺しのユダヤ人」という構図ができあがり、「ユダヤ人はキリスト教の敵」とみなされるようになったのです。
嫌悪感情から制度化へ
差別的な感情の定着
ユダヤ人は移住先ではまとまってユダヤ教式の生活を貫いて暮らしました。
ユダヤ教の儀式のひとつに過越祭(すぎこしさい)があります。過越祭の夕食に行われる儀式はセデルとよばれます。
キリストが描かれている有名な絵画レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はセデルの場面です。
ですが、この絵画はキリスト教の絵画として広く認識されています。
元は同じだったユダヤ教とキリスト教ではありましたが、ユダヤ教徒はもはやキリスト教徒と交わることなく独自の儀式を行い続けていたので、キリスト教徒からはますます悪いイメージを持たれるようになり、差別的な感情が生まれるようになりました。
差別的な感情は長い年月をかけ定着し、制度として差別がなされるようになっていきます。
公職追放令 1078年
ローマ教皇はユダヤ教徒にたいし「公職追放令」を出しました。
これによりユダヤ人は通常の職業に就くことができなくなりました。
その状況下、金融業に従事するユダヤ人が多くありました。
キリスト教では利息は罪悪と考えられていましたが、ユダヤ教はそうではありませんでした。
そのため、ユダヤ人はこの分野を一手に引き受けることができたからです。
ユダヤ人はカネに汚い高利貸というイメージがつくられたのはこういった状況からです。
レコンキスタ 1492年
キリスト教徒はイベリア半島でイスラム勢力を一掃しました。
その時、ユダヤ教徒にたいしても「ユダヤ教徒追放に関する一般勅令」が出され、すべてのユダヤ人がスペイン領土から追放されました。
ゲットーへの強制 1555年
ユダヤ教に強い反感をもつパウルス4世がローマ教皇になると、ユダヤ教徒にゲットーへの居住を強制する政策をとりました。
これはまたたく間にヨーロッパ各地に広まりました。
3.民族的な差別へ
1789年、フランスで革命が起こりました。
このフランス革命は、これまでの貴族による封建的特権政治を市民が打倒したものです。
この時人権宣言が採択されました。
そこには「人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また、存在する。」と謳われています。
この意識は西欧から東欧、ロシアへと拡がり、それぞれの国でユダヤ解放令が出されていきました。
これによりユダヤ教徒はキリスト教徒と平等になったのです。
民族的差別感情の発生
ユダヤ教徒はキリスト教社会になじもうと努力し、キリスト教へ改宗する人さえありました。
ところが「キリスト教徒になったからって、しょせんユダヤ人はユダヤ人だよね」という見方が現れるようになりました。
ここで、宗教の違いからではなく、人の違いからの差別意識が持たれるようになりました。
つまりユダヤ教徒を排斥するというのではなく、ユダヤ人を排斥するという民族的な面からの差別が生まれたのです。
優生学 人種に序列をつけはじめる。
1883年イギリスの遺伝学者ゴールトンが優生学を提唱しました。
優生学は「人類がよくなるためには、優れた遺伝子を育て、劣った遺伝子は駆逐するべし」という考え方です。
では「優れた遺伝子とは何か」という時、人間は「自分たちは優れていて、自分たちが差別したい人たちは劣っている」という考え方になりがちです。
この考え方は、大国が植民地を拡大する際にマッチしたもので、帝国主義の時代に流行しました。
こうった考え方により、黄色人種、黒人などのような分類がなされ人種差別が横行するようになり、ユダヤ人の迫害へとつながっていったのです。
この頃、黄色人種ということで日本人も差別の対象となりました。
このことから考えても、ユダヤ人の差別には意味がないことが実感できます。
ドイツのヒットラーは優生学を信奉していて、1930年代に独裁政権を確立してからは反ユダヤ主義の「ニュルンベルク諸法」を公布し、ユダヤ人を弾圧したのです。