ガザ地区でハマス、イスラエル停戦

2019年5月8日、ガザ地区を支配するハマスとイスラエル軍の間で停戦合意がされたというニュースがありました。

これはどのような意味があるのでしょうか。
ガザ地区とはどのようなエリアなのでしょうか。
パレスチナ問題でおなじみのガザ地区についてまとめました。

ガザ地区とは

パレスチナ問題といえば定番なのが下の地図です。
ガザ、ヨルダン川西岸

長方形に線引きされているのがガザ地区です。
この境界線は中東戦争の結果、引かれたものです。
境界線の変遷をみます。

1947年国連分割案のパレスチナ

第2次世界大戦終盤、ヨーロッパからユダヤ人がパレスチナへ移住してきたことで、先住のパレスチナ人との間で衝突が起こるようになりました。
委任統治していたイギリスはこの争いを解決することを放棄し、国連へ委ねました。
これを受け、国連はアラブ人の領域とユダヤ人の領域を分けてそれぞれ住み分ける提案をしました。

この分け方はユダヤ人側に有利でした。
ユダヤ人側に過半数の広さが割り当てられ、しかも地中海側の肥沃な農耕地が多く含まれていました。
ガザは南側に伸びた部分も含めアラブ人側でした。

パレスチナ国連分割案

1948年第1次中東戦争後のパレスチナ

国連に領域を割り振られたユダヤ人は1948年5月1日、イスラエル国の建国を宣言しました。
これに対し、パレスチナ周辺のアラブの国々は独立を認めず宣戦布告し、戦争となります。
結果はイスラエルが勝利、国連分割案よりも広い領域をユダヤの領土としました。
ヨルダン川西岸は戦争終盤にトランスヨルダンの国王と親ヨルダンのパレスチナ人との間での話し合いにより、トランスヨルダンが併合しました(国際社会はこれを認めていません)。ガザはエジプトが占領しました。

1967年第3次中東戦争後のパレスチナ

イスラエルが水を確保するための工事を始めたことをきっかけに、再びアラブ諸国との衝突が発生し、1967年6月5日、イスラエル空軍が奇襲作戦を実行しました。
結果は六日間という短い間にイスラエルが圧勝、境界が大きく塗り替えられました。
ヨルダン川西岸、ガザ地区、シナイ半島がイスラエルに占領されました。
ヨルダン川西岸とガザ地区はこの時以来、イスラエルに占領されたまま現在に至っています。

シナイ半島は後にエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相との間で和平が結ばれ返還されることになりました。

ヨルダン川西岸とガザ地区

これまで見てきたように、ヨルダン川西岸とガザ地区は共通点があります。

・1947年の国連分割案でアラブ人の居住区とされた。
・1948年の第1次中東戦争でアラブの国の所属となった(ヨルダン川西岸はトランスヨルダン、ガザ地区はエジプト)。
・1967年の第3次中東戦争後でイスラエルに占領された。

そのため、その後の和平案などでもこの二つのエリアはセットで扱われてきました。

ところが、ある時点からガザ地区はがぜん独自の存在感を出し始め、現在ではヨルダン川西岸とは袂を分かち、むしろ敵対する関係となっています。

「ある時点」というのはインティファーダです。

インティファーダ

インティファーダは、イスラエルに占領されているヨルダン川西岸、ガザ地区で起こった、イスラエル軍に対する丸腰の市民による抵抗運動で、第4次中東戦争後も続いていたパレスチナとイスラエルの戦いに和平への道を切り開くきっかけとなった出来事でした。

インティファーダの経緯をまとめます。

占領地の実態

1967年、ガザ地区はイスラエルに占領されました。
占領されると、これまで暮らしていたパレスチナ地域に住むアラブ人(パレスチナ人)の生活は尊重されることはありません。
イスラエル政府は肥沃な農地をパレスチナ人から没収し、ユダヤ人用の農地として用意し、ユダヤ人の居住を推進しました。

国際社会からは国際法違反として非難されていますが、イスラエル政府は一顧だにしません。
アラブ側のテロからユダヤ人の安全を守るとして常にイスラエル軍が監視し、敵対しているとみなされると一方的に罪を負わされるなどガザの人々が虐げらる生活が続きました。

また、イスラエルは占領地での産業の振興を認めなかったため、ガザの人々は仕事が無くなり、イスラエルに出稼ぎに行って生計を立てるしかなくなりました。
敵であるイスラエルへ出かけて行って自分たちの土地を奪って建てられる建設事業に携わるという矛盾をかかえながらの労働です。
しかも仕事はイスラエル人がやりたがらないきつい仕事を日雇いの低賃金で請け負うものでした。

このような抑圧された生活が20年続き、不満がマックスになって爆発したのがインティファーダです。

インティファーダの開始

1987年、パレスチナ人の乗った車とイスラエル軍の大型トレーラーが正面衝突しパレスチナ人4人が死亡する事故が発生しました。イスラエル兵士は無事でした。
亡くなった4人の葬儀でパレスチナ人住民のイスラエルに対する不満が噴出し自然発生的に暴動となりました。
民衆が石やガラス瓶などをイスラエル兵に投げつけ始めたのです。
イスラエル軍からの反撃を顧みず、女性、子供も加わり、その後ガザ地区のみならずヨルダン川西岸へも拡大していきました。

この様子はテレビで全世界に中継されました。
完全武装のイスラエル軍に対し、普段着で手に持った石で対抗するパレスチナ人の映像は「イスラエルの武装はアラブ過激派によるテロに対する防衛ではないではないか。素人に向け発砲するなんてイスラエルはひどすぎる」と国際社会に衝撃を与え、和平への動きにつながったのです。

オスロ合意

1993年9月、パレスチナとイスラエルが和平に合意しました。
パレスチナ代表のアラファトとイスラエル代表のラビンがアメリカのクリントン大統領立ち会いの下、「パレスチナ暫定自治協定」に署名しました。

その内容はおおまか次の通りです。

・パレスチナはイスラエルを認める。
・パレスチナはテロを止める。
・イスラエルはガザとヨルダン川西岸の一定地域に期限付き自治権を認める。

これによって和平への気運が高まったかにみえましたが、すぐに悪化することになります。

1995年にイスラエルのラビンが和平に反対するユダヤ人青年によって狙撃され死亡します。
1996年にはパレスチナ自治区で第1回総選挙が行われアラファトが代表に選出されましたが、一方で和平に反対するパレスチナの組織が誕生していました。
ハマスです。

ハマス

ハマスの結成と目的

ハマスはガザで結成されたイスラム教の教えを政治面でも実現しようとするイスラム(武装)組織です。
リーダーはヤシン。
ヤシンはインティファーダが起こる以前から反イスラエル抵抗運動のリーダーとして、ガザのイスラム教徒からカリスマ的人気を集めていました。

そして、インティファーダが起こった1987年にハマスを結成し本格的に武装闘争を開始したのです。
ハマスの目標は、パレスチナ人によるパレスチナ全土の奪回です。

ですので、アラファトがイスラエルと結んだ「オスロ合意」には断固反対でした。期限付きの暫定自治などありえない、との姿勢です。

ハマスはガザからテロ活動を活発化させていきました。

パレスチナ自治政府vsハマス

パレスチナ自治政府では初代大統領のアラファトが2004年に病死しました。
代わって就任したのがアッバスです。


アッバスは過激な活動家アラファトとは対極の政治家で、武力闘争はせず、停戦を進めていきました。

ハマスはこれに反対します。

ハマスの誕生で、パレスチナには、「現実に合わせて和平を進めて行くアッバス率いる政治組織ファタハ」と「歩み寄りは許さないハマス」の2本柱が並び立ち武装闘争を繰り広げ、亀裂が深まっていきました。

2006年に行われたパレスチナ立法評議会選挙では、ハマスが過半数を獲得して政権を樹立しました。
基本方針の異なるハマスとファタハの間で武力衝突が起こり、両者の間で亀裂が深まっていきました。
そして2007年、ハマスはファタハを追放するなどガザを制圧し対立が決定的となりました。

これ以来、ハマスが実効支配するガザ地区とアッバス率いるファタハによる自治政府が統治するヨルダン川西岸の構図ができあがりました。

両者はその後何度か歩み寄りの動きもありましたが、現在も和解には至っていません。

イスラエルのヤシン暗殺、ガザからの撤退

イスラエルはハマスのテロ活動を止めさせようと、2004年ハマスのリーダーのヤシンを暗殺するという手にでました。
その一方で、ガザ地区の放棄を決めます。
2005年、イスラエルはガザ地区のユダヤ人入植地とイスラエル軍を撤収させました。

ガザの封鎖

占領と封鎖

2005年にガザ地区からイスラエルが撤収しましたが、1967年以来イスラエルに占領されていたガザ地区がパレスチナの自由になるという状況にはなりませんでした。

イスラエルの軍は地区にいなくなった代わりに、周囲を囲い検問所を設けてそこを通らないと人も物も出入りできないようにしました。
ガザにハマスを封じこめようと考えたのです。

武器や抵抗運動に利用される物資を止めるだけでなく、食料や燃料など生存に必要な物資も最低限しか入れられません。

イスラエルとの国境沿いばかりでなく、海側も封鎖されています。

続く応酬

ガザ地区からイスラエル軍が撤退し封鎖の状況にあるなか、闘争が収まることはありません。
ハマスはガザ地区からイスラエル領内へロケット弾を撃ち込み、それにイスラエルが応酬する戦いが続き、イスラエルは2008年、2009年、2012年、2014年と、大規模な軍事侵攻を行い大きな被害をもたらせました。

その間、いくどか停戦が成立しましたが、その都度戦闘が再開され、現在に至っています。

ガザ地区住民の意識の変化

戦闘が長引くにつれガザの住民のハマスに対する意識も変化してきています。
ハマスはイスラエルにテロ攻撃を行う一方で、診療所運営など貧しい住民への福祉活動も行っていましたが、イスラエルへの武力攻撃中心のハマスの支配下で一向に生活が楽になることがなく、住民の間ではイスラエルに対する憎悪に加えハマスへの不満も高まってきています。

2019年5月の停戦

2019年5月3日、2014年以来の大規模な衝突がありましたが、これ以上の被害拡大を避けたいハマスと国際的なイベントを控え混乱を収拾させたいイスラエルの間で停戦合意が成立したということです。

停戦合意はこれまでも繰り返されたもので、今回の停戦も一時的なものとみられます。

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