ページが見つかりませんでした – Magazine7 マガジンセブン マガジン7 https://magazine7.net ことばを拾い「これ何だっけ?」を整理するウェブマガジン Thu, 28 May 2020 08:33:48 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.14 ベートーベン交響曲第1番2楽章 聴きどころはここ。 https://magazine7.net/2min45/ Thu, 28 May 2020 08:01:38 +0000 https://magazine7.net/?p=3578

シリーズ 2分でクラシック 45/93

冒頭、ヴァイオリンが、ビオラが、ファゴットが、オーボエが・・・と徐々に加わっていくのを聴きながら、それが強まってさびになってきます。「ランランラン ランランラン ランラララララーン」と、ピクニック気分で聴きましょう。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第1番2楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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ベートーベン交響曲第1番1楽章 聴きどころはここ。 https://magazine7.net/2min44/ Wed, 27 May 2020 06:48:30 +0000 https://magazine7.net/?p=3573

シリーズ 2分でクラシック 44/93

交響曲、最初の最初です。
冒頭静かーに入っていって、こんな感じ? と油断していると、かっこよいさびがやってきます。
ちょっと慎重に、そして武者震いするようなヴァイオリンに掴まれましょう。
そしてすぐに緊張感から開放されたかのように高らかに、突っ走っていく、あとは流れにただ委ねるだけです。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第1番1楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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チャイコフスキー、クリミア戦争がなかったら? https://magazine7.net/2min43/ Mon, 25 May 2020 07:22:59 +0000 https://magazine7.net/?p=3566 シリーズ 2分でクラシック 43/93

チャイコフスキーのロシア

チャイコフスキーは1840年に生まれ1893年に亡くなっています。

この頃のロシアはどのような時代だったのでしょうか。

ロシアはナポレオン戦争でナポレオンを撃退した後、ウィーン会議に参加し、ワルシャワ大公国、ポーランドと領土を拡張しました。

その後も周辺を侵食していきました。
弱体化してきたオスマン帝国領域、イギリスとアヘン戦争を戦い疲弊した清、中央アジアなどに乗り出し条約を結び領土を獲得していきました。

その一環でクリミア半島を舞台にオスマン帝国と戦ったクリミア戦争では、トルコ側にイギリス・フランスがついたこともあり、ロシアは敗退、利権が縮小することになりました。
1853-1856年のことでした。

これにより、ロシアの皇帝アレクサンドル2世は、これまでの皇帝による専制政治では世界に勝てないと政治改革を決意します。

領主に支配されながら農業生産に従事していた農奴のを解放して自由な身分にする「農奴解放令」が1861年に発令されました。

農村では独立自営農民が生まれ、都市の知識人階級(インテリゲンツィア)も解放政策を推進しました。

さて、チャイコフスキーが本格的に音楽を学び始めるペテルブルグ音楽院が創立されたのが1862年、教師として就任するモスクワ音楽院が創立されたのが1866年です。


1840年 チャイコフスキー誕生

1853-1856年 クリミア戦争。ロシア敗退。


1861年 農奴解放令


1866年 チャイコフスキーモスクワ音楽院の教師に就任。交響曲第1番『冬の日の幻想』作曲


1893年 チャイコフスキー死去


1895年 レーニン「労働者階級解放闘争同盟(英語版)」結成


チャイコフスキー登場以前にもロシアの交響曲は存在していたものの「交響曲はやっぱりヨーロッパだよね」という考えはありました。
ヨーロッパ音楽を基礎におきつつロシア調につないでいくというのがロシアの作曲家には課せられていたといいます。

制度改革で農奴から農民へと国が大きく転換点していく時代、そしてレーニンの登場へ、という時代にチャイコフスキーの音楽は誕生したのです。

プチ・クエスチョン

Q1. チャイコフスキーと同時代で、ナポレオン戦争時のロシアを描いた大河小説があります。
そのタイトルと作者は?

A.
『戦争と平和』トルストイtouch

今日の1楽章は
チャイコフスキー交響曲第2番【小ロシア】2楽章

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「さびから入門クラシック」

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ベートーベン【英雄】表紙書き換えられた文字は? https://magazine7.net/2min42/ Sun, 24 May 2020 04:36:26 +0000 https://magazine7.net/?p=3559 シリーズ 2分でクラシック 42/93

ベートーベン【英雄】表紙再考

交響曲第3番の清書譜の表紙(ウィーン楽友協会蔵)

↑この写真。
「ベートーベン交響曲第3番【英雄】はナポレオンに献呈されるはずだったが、ナポレオンが皇帝に就任したことで、ベートーベンが怒って表紙を書き換えた、これがその時のものである」ということだと思っていました。

ただ、この画像はWikipediaに掲載されていて、その説明では次のことが書かれています。

タイトルの「intitolata Bonaparte」は削られていて、鉛筆で「Geschrieben auf Bonaparte」と追加されている。
「エロイカ」というタイトルが付けられたのは、1806年10月の初版になってから。

「intitolata Bonaparte」はドイツ語で「題 ボナパルト」と訳せます。
「Geschrieben auf Bonaparte」は「ボナパルトへ」といったところでしょうか。

つまりこの削られた箇所は「おのれ!ナポレオン、消してくれるわ」と怒りにまかせて破損させて、「エロイカ」と書き直したわけではなく、最初に「この曲のタイトルはズバリ『ボナパルト』だ」と興奮気味に記したものの、「ああ、でもちょっとやりすぎかな。『ボナパルトさんに捧げる』くらいにしようかな」といった段階の話かもしれません。

大きな文字は「Sinfonia grande」と読めそうです。
「壮大な交響曲『ボナパルト』」といったところだったのでしょうか。

にしてもベートーベンの直筆がこのように見られるなんて、感動には変わりありません。

Sがト音記号みたいでかわいいです。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第6番3楽章

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「さびから入門クラシック」

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ベートーベンの処世術 https://magazine7.net/2min41/ Sat, 23 May 2020 06:31:16 +0000 https://magazine7.net/?p=3538
ウィーン会議の様子

シリーズ 2分でクラシック 41/93

ベートーベンとウィーン会議

ベートーベンはナポレオンに【英雄】を献呈せず、ハプスブルク帝国関係者のパトロンと関係を続けました。

その後のナポレオンの動向とベートーベンの活動を年表でみてみます。


1807年 ナポレオン、イベリア半島出兵
ベートーベン、交響曲第4番初演。パトロンはシュレージェン地方の貴族。


1808年 スペイン軍、フランス軍に反旗、フランス降伏。
ベートーベン、交響曲第5番、交響曲第6番初演。パトロンはボヘミアの貴族・ロブコヴィッツ侯爵とロシアの貴族・ラズモフスキー(両曲とも)。


1809年 オーストリア・ハプスブルク、再びナポレオンに反撃。
ナポレオン2勝、オーストリア1勝。


1812年 ナポレオン、ロシア遠征。フランス軍大敗。


1813年 スペインのビトリアの戦いで、ウェリントン侯爵率いるイギリス軍がフランス軍に勝利。
ベートーベン、交響曲第7番初演、ウェリントンの勝利初演。
第7番のパトロンはオーストリアの銀行家。ウェリントンの勝利はイギリス摂政ジョージ。


1814年 ナポレオン、コルシカ島、エルバ島に追放。
ウィーン会議開始。

ベートーベン、交響曲第8番初演。パトロンはオーストリアの貴族・ルードルフ大公。


1815年 エルバ島脱出、フランスへ帰還。
復活して再び帝位につくが、イギリス、オランダ、プロイセンと戦い敗戦、フランス軍は崩壊。
ナポレオンはセントヘレナ島へ島流しに。
ウィーン会議終了。


1824年
ベートーベン交響曲第9番初演。パトロンはプロイセン国王フリードリヒ・アレクサンドロヴーナ。


ここで、注目は
・第5番、第6番のパトロンのラズモフスキー
・ウェリントンの勝利のイギリス摂政ジョージ
・交響曲第9番のプロイセン国王フリードリヒ・アレクサンドロヴーナ
です。
これらの人物は、ウィーン会議のなかでの重要人物です。
ウィーン会議はナポレオン後のヨーロッパをどう再構築するかを決めるために関係諸国のTOPが集まって行われた会議です。

特にラズモフスキーはロシアの外交官でウィーンに駐在していた音楽愛好者で、ベートーベンに弦楽四重奏も依頼しています。

ベートーベンは、全盛期のナポレオンに新規営業をかけなかったことで、旧来のお客さん・ハプスブルクと繋がりながら、ウィーン会議という新しい時代を創る人脈も手に入れ、パトロンのシフトチェンジに成功したといえましょう。

書き換えていなかったら、第9までは生まれていなかったかもしれません。

1813年、ナポレオンの衰退を目前に「ウェリントンの勝利」の初演ではベートーベン自身がタクトを振ったといいます。
ベートーベンの「やー危なかったわー。なんとかなったわー」とホットしながら軽やかに演奏した様子がめにうかぶようです。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第7番3楽章

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「さびから入門クラシック」

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新説!ベートーベン【英雄】表紙が書き換えられたその理由 https://magazine7.net/2min40/ Fri, 22 May 2020 06:41:19 +0000 https://magazine7.net/?p=3510
交響曲第3番の清書譜の表紙(ウィーン楽友協会蔵)

シリーズ 2分でクラシック 39/93

ベートーベンとナポレオン

ベートーベン交響曲第3番【英雄】についての定番のエピソードがあります。

ベートーベンは当初ナポレオンに捧げることを念頭に表紙に「ボナパルトへ。ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン」という献辞を書いた。
しかし、ナポレオンが皇帝の座に就いたことを知り、ベートーベンは激怒し表紙に書かれていたナポレオンへの献辞とタイトルを削り取ってしまい、新たに「ある英雄の思い出をまつる」曲としてイタリア語で「シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)」と記した。

というものです。

これは本当でしょうか。

この筋書きだと
・ベートーベンは下級軍人から駆け上って旧体制の国々を崩壊に追いやったナポレオンに敬意を抱いていた、
・しかし、ナポレオンが皇帝になり体制側となったので、裏切られた気持ちになり怒った。
ということになります。
つまりベートーベンは一般市民を応援していたという理解になります。

ベートーベンは貴族が支配する体制を崩し市民が平等に暮らせる国を理想と考えたのでしょうか。
ここが疑問です。
ベートーベンは音楽を仕事にしようとウィーンに来ています。
音楽を仕事にするには、支援が必要です。
貧乏な市民は音楽にお金を払ったりしませんから、お金持ちがいなければベートーベンは食っていけません。
その状況で、お金持ち貴族の崩壊を望むでしょうか?
ベートーベンは、故郷のドイツ・ボンの選帝侯にオーストリアのハプスブルク家を紹介してもらってウィーンに留学生としてきました。

ナポレオンのフランス軍は、イギリス、ロシアそしてオーストリア・ハプスブルクを敵としています。

『地図で読む世界史』実務教育出版より

ベートーベンがウィーンに来た時期と、ナポレオンが遠征を開始した時期はおおまか重なります。
ベートーベンがウィーンにきたのが1792年、ナポレオンが最初の遠征・イタリアに出たのがその5年後の1797年です。

ベートーベンの交響曲の作曲時期とナポレオンの動きを年表で見ます。


1792 ベートーベンウィーンへ。


1797年 ナポレオンイタリア遠征
ナポレオン軍、オーストリア・ハプスブルク軍に勝利。
フランス ×オーストリア・ハプスブルク


1798年 ナポレオンエジプト遠征
「ピラミッドの戦い」
フランス ×オスマン帝国
「ナイルの海戦」
×フランス イギリス


1799年
オーストリア、北イタリア奪回。
×フランス オーストリア・ハプスブルク


1800年 第2次イタリア遠征
フランス軍、オーストリア軍撃破。
フランス ×オーストリア・ハプスブルク
ベートーベン交響曲第1番初演。パトロンはオーストリアの男爵。


1801年 ナポレオン、フランス革命で関係が悪くなっていたローマ教会と和解。
フランス、オーストリア・ハプスブルク講和


1802年 「アミアンの和約」フランス、イギリス講和


1803年 イギリス、フランスへ宣戦布告。
ベートーベン交響曲第2番初演。パトロンはドイツの侯爵。


1804年 ナポレオン、国内での幅広い支持を受け、国民投票により皇帝に即位。ローマ教皇立ち合いのもと戴冠式を挙行。


1805年 フランス対オーストリア・ロシア
「アウステリッツの戦い」
快勝 フランス軍 ×オーストリア・ハプスブルク、ロシア
オーストリア、フランスに屈服。
ベートーベン交響曲第3番【英雄(ボナパルト交響曲?)】公開。パトロンはボヘミアの侯爵。


交響曲第3番【英雄】が作曲されたのは1804年12月です。
第2番が作曲されたのが、1803年なので、その後すぐにとりかかったことが想像できます。

その頃までの戦歴はナポレオンのフランスとオーストリア・ハプスブルクはフランスの2勝1敗で、1801年には講和しています。

ところが、1805年に再びナポレオンとオーストリア・ハプスブルクは戦います。
そして、ここでナポレオンが完勝します。

ベートーベンはこれをどのように見ていたでしょうか。

 

戦争が始まり、ベートーベンは

ハプスブルクも危ういなぁ、新しいお客さんを開拓しなくっちゃな。

と焦っていたかもしれません。
そうこうしていると1801年にオーストリア・ハプスブルクはフランスと講和します。

おお。新支配者はナポレオンになったか。一つご挨拶に1曲献呈しておこう。

と新曲の献呈を決めたのかもしれません。
すると、なんと1805年に両者は決別し戦争になります。

やっべー。また敵と味方か。
ハプスブルクは落ち目とはいえ最重要顧客には違いない。
それにたいしてナポレオンは音楽に果たして興味がある人なのか、わからない。
ここはハプスブルクを手放すわけにはいかない。
ナポレオンに献呈したことがわかったらハプスブルクに顰蹙をかってしまう。証拠を消さなければ。
オーストリア・ハプスブルクが一度ナポレオンに奪われたイタリアを奪回したじゃない?それを祝う曲っていうことで。だからタイトルもイタリア語にした。

ということで、表紙を書き換えたのではないか、と思うのです。

事なきを得て、この曲にはハプスブルク帝国領内ボヘミアの伯爵がパトロンとなります。

ベートーベンの生計と、ナポレオン戦争は自由と平等の理念をかかげたとはいえ結局は征服戦争で、ベートーベンだって気づいていたに決まっているでしょう、という面から見た推理でした。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第3番【英雄】1楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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楽しい、ナポレオン選び。 https://magazine7.net/2min39/ Fri, 22 May 2020 01:00:15 +0000 https://magazine7.net/?p=3499 シリーズ 2分でクラシック 39/93

五つの「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」

ナポレオンの肖像として有名なジャック=ルイ・ダヴィッド作の「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」は5枚存在しています。

構図は同じですが、それぞれ微妙に違っています。

1801 フランスのマルメゾン城の美術館所蔵

1801 ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に展示

1801 ウィーンのベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーに展示

1802 ベルサイユ宮殿の美術館に展示の1枚め

1804年頃 ベルサイユ宮殿の美術館に展示の2枚目



比べてみると
まず驚くのは黒い馬がいることです。これがシャルロッテンブルク版


そしてなんといっても、注目は顔です。
どれが一番イケメンでしょうか。
やはりマルメゾン版でしょう。
正統派ジャニーズ系です。
横顔にかかるもみあげがふわっと表情をあまーーーくしています。

ベルサイユ1枚目版もなかなかいいです。こちらはちょっとキリっと感があり冷静なイメージを出しています。

ベルサイユ2枚目版は外国人にいそうな顔であまり”夢のある”感じがなく、躍動感ももう一つです。

ベルヴェデーレ版はちょっと神経質そうですね。

いずれにも手前側の石に文字が書き込まれています。
「BONAPARTE」「HANNIBAL」「KAROLVS MAGNVS IMP」
「ボナパルト」「ハンニバル」「カール大帝」

ボナパルトはナポレオン・ボナパルト。
ハンニバルはローマ時代のローマ軍最強の敵カルタゴの将軍。ナポレオンが越えているアルプスのサン・ベルナール峠を越えてイタリアに侵入した「元祖アルプス越え」。
カール大帝は初代神聖ローマ皇帝で、やはりサン・ベルナール峠を越えてイタリアに侵攻したといわれます。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第5番3楽章

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「さびから入門クラシック」

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ハプスブルク帝国負けがこむ https://magazine7.net/2min38/ Thu, 21 May 2020 07:07:59 +0000 https://magazine7.net/?p=3487 シリーズ 2分でクラシック 38/93

ナポレオンとハプスブルク帝国

ナポレオンはフランス革命で高まった市民精神と民族解放を旗印に、革命の理念をヨーロッパ各地へ広めようと、遠征に出かけます。これは実際にはナポレオンの個人的野心を実現させるための征服戦争であり、ナポレオン戦争と呼ばれます。

ナポレオン戦争の枠組みはおおまかに次のような形です。
ナポレオン軍のフランスとナポレオンの理念に共鳴したポーランドなどの国

イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国

ナポレオンは1809年までにヨーロッパの勢力地図を塗り替えました。
ナポレオンの動向とおもな戦況は次のとおりです。

1797年 イタリア遠征
ナポレオン軍、オーストリア・ハプスブルク軍に勝利。
フランス ×オーストリア・ハプスブルク


1798年 エジプト遠征
「ピラミッドの戦い」
フランス ×オスマン帝国
「ナイルの海戦」
×フランス イギリス


1799年
オーストリア、北イタリア奪回。
×フランス オーストリア・ハプスブルク


1800年 第2次イタリア遠征
フランス軍、オーストリア軍撃破。
フランス ×オーストリア・ハプスブルク


1801年 ナポレオン、フランス革命で関係が悪くなっていたローマ教会と和解。
フランス、オーストリア・ハプスブルク講和


1802年 「アミアンの和約」フランス、イギリス講和


1803年 イギリス、フランスへ宣戦布告。


1804年 ナポレオン、国内での幅広い支持を受け、国民投票により皇帝に即位。ローマ教皇立ち合いのもと戴冠式を挙行。


1805年 対オーストリア・ロシア
「アウステリッツの戦い」
快勝 フランス軍 ×オーストリア・ハプスブルク、ロシア
オーストリア、フランスに屈服。


〃年  対イギリス
「トラファルガーの海戦」
×フランス軍 イギリス


1806年 対プロイセン
「イエナの戦い」
フランス ×プロイセン


1807年 対ポルトガル
フランス ×ポルトガル


1808年 対スペイン
フランス ×スペイン

ハプスブルク帝国のオーストリア・ハプスブルクは負けが込み、一時北イタリアを奪回したものの講和ののちの戦いで敗北、屈服することになりました。

ナポレオンの肖像で有名な「ヒヒ~ン」の絵は、オーストリア・ハプスブルクが一時奪回した北イタリアを再び奪い返そうと、ナポレオンが裏をかいてアルプスを越えて進撃しているときの様子です。

ルイ・ダヴィッド画「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」

プチ・クエスチョン

Q1. ルイ・ダヴィッドの描いた「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」は複数枚あります。何枚あるでしょうか。

A.
5枚touch

・フランスのマルメゾン城の美術館が所蔵しているもの
・ベルサイユ宮殿の美術館に展示されているもの、2枚
・ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に展示されているもの
・ウィーンのベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーに展示されているもの。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第9番2楽章

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ベートーベン、すごいドン・パチ曲 https://magazine7.net/2min37/ Tue, 19 May 2020 09:33:17 +0000 https://magazine7.net/?p=3476 シリーズ 2分でクラシック 37/93

フランス革命が起こると、民衆の熱気と同調するような革命歌的な音楽が盛んに作曲されました。
を祝祭する音楽が
「~行進曲」「〇〇の勝利」「〇〇の祭典」のようなタイトルで、式典で演奏される祝祭的オーケストレーションの曲だったようです。

旧体制を崩壊させいざ自由の国に、という勢いだったフランス革命ですが、その後国内は混乱し政治が不安定になりました。
そのようなときに、軍人としてフランスを脅かす周辺国を抑え、政治力も発揮し国民の間に名声を高めたのがナポレオンです。

ナポレオンは逆戻りの気配も見せる政府にたいし、クーデターで新政府を樹立しトップに立ち、独裁的権力を手にしました。

ナポレオンはヨーロッパ全体に勢力を広げようと、イタリア、エジプト、ドイツ・オーストリア、イベリア半島、ロシアに遠征し、広範囲を征服することに成功しました。

ナポレオンの進撃に際しても音楽家はイメージを曲で表現し、ニュースのように提供されたといいます。

スペイン攻略時のトラファルガーの海戦
オーストリア領・アウステルリッツの戦い
ロシアのモスクワ会戦

などの戦いをテーマにした曲が作られました。

トラファルガーの海戦では、オーストリアの作曲家やドイツのピアニスト、ボヘミアの音楽家らがそれぞれ作曲しています。

スペインのビトリアの戦いでフランス軍を破ったイギリスのウェリントン侯爵を称えてベートーベンが作曲したのが、「ウェリントンの戦い」です。
1813年の作品です。
すごい、ドン・パチ。

ベートーベン作曲「ウェリントンの戦い」

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第4番3楽章

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ベートーベンはどこの貴族がお好き? https://magazine7.net/2min36/ Mon, 18 May 2020 08:51:53 +0000 https://magazine7.net/?p=3464 シリーズ 2分でクラシック 36/93

ベートーベンがウィーンで作曲活動を行っていたのは、1792年以降です。
その頃のヨーロッパは1789年にフランス革命が起こり王政が崩壊するなど激動の時期を迎えていました。

ベートーベンの交響曲のパトロンは「シリーズ 2分でクラシック 26/93」でみましたが、全体としては、ボヘミア、ハンガリー、ロシア、シュレージェン地方、ポーランドなどからで、オーストリア系ハプスブルクの貴族からの支援はルードルフ大公のほか、多くありません。

この時代、ハプスブルク家は戦費がかさみ、周辺地域の貴族は余裕があったからだと考えられます。

プチ・クエスチョン

Q1. ルードルフ大公は音楽好きで、ベートーベンとは親しい間柄で、最後まで援助を続けました。二人は作曲者と支援者の他に関係がありました。それはなんでしょうか。

A.
ピアノと作曲の先生と生徒touch



ルードルフ大公には、ピアノ協奏曲「皇帝」も献呈しています。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第8番2楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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ベートーベンと神聖ローマ帝国 https://magazine7.net/2min35/ Sun, 17 May 2020 07:15:24 +0000 https://magazine7.net/?p=3459 シリーズ 2分でクラシック 35/93

ベートーベンの誕生の地はボンです。
1770年にボンを治めているケルンの選帝侯の宮廷歌手の息子として生まれました。

ボンは神聖ローマ帝国内ですが、ハプスブルク家領内ではありません。

ですが、ケルンの選帝侯はハプスブルク家と縁があり、ベートーベンをウィーンに留学生として送ったのです。
ベートーベン21歳の時です。

プチ・クエスチョン

Q1. モーツアルトのザルツブルクではザルツブルク音楽祭がありますが、ボンでも音楽祭があります。
それはなんでしょうか。

A.
ボン・ベートーベン音楽祭touch



ベートーベンの生誕75周年を記念して1845年に音楽祭が開かれたのが最初です。
現在では毎年9月に開催されています。


今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第8番2楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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ザルツブルク音楽祭とモーツアルト https://magazine7.net/2min34/ Sat, 16 May 2020 06:32:43 +0000 https://magazine7.net/?p=3451 シリーズ 2分でクラシック 34/93

ザルツブルク音楽祭はオーストリアのザルツブルクで毎年夏に開催される音楽イベントです。
世界中から有名な音楽家、アーティストが集結し1カ月以上にわたり繰り広げられる音楽のお祭りです。

オペラ、演劇、コンサートの200公演以上がプログラムされます。

コンサートは特に重要な柱で、ソロコンサート、歌曲、室内楽、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などの演奏が行われます。

この音楽祭の歴史において有名なキーマンが二人います。
一人はリヒャルト・シュトラウス。

モーツアルトやベートーベンからおおよそ100年ほど後の時代の作曲家で、有名な曲に『ツァラトゥストラはこう語った』があります。
第1次世界大戦末期、シュトラウスらが中心となってもともと伝統的な演劇イベントをザルツブルク音楽祭として発展させました。

『ツァラトゥストラはこう語った』は曲の出だしが映画『2001年宇宙の旅』冒頭で使われて有名です。
この曲はここだけ聞けば全てよし、という感じです。

『ツァラトゥストラはこう語った』



そして、キーマンのもう一人がヘルベルト・フォン・カラヤンです。

第2次世界大戦で音楽祭も危機的な状況に置かれました。
戦後、芸術監督として立て直し軌道に乗せたのがカラヤンです。
カラヤンは指揮者ですが、音楽を音だけでなく見栄え良く雰囲気を作って客を楽しませることも重要視していました。

「モーツアルトを生んだ町ザルツブルクの音楽祭」のイメージが今では強くありますが、リヒャルト・シュトラウスが音楽祭を企画するまでは、ザルツブルクの人は誰もモーツアルトのことは意識していなかったという話もあります。

今日の1楽章は
モーツアルト交響曲第36番【リンツ】2楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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モーツアルトとザルツブルク https://magazine7.net/2min33/ Fri, 15 May 2020 07:46:07 +0000 https://magazine7.net/?p=3436 シリーズ 2分でクラシック 33/93

モーツアルトの出身地ザルツブルクはキリスト教的な面から特別な都市でした。

どこが特別なのでしょうか。
キリスト教で最高の地位にあるのは教皇で、教皇によって認められた王が統治する国として神聖ローマ帝国がありました。

ザルツブルクは神聖ローマ帝国の領内ながらも、神聖ローマ帝国直属の独立した国家で、ローマに次ぐ世界で2番目に大きな教会国家で北のローマともよばれていました。

ザルツブルク大司教は教会と国との両方の権力をもち、財力もあって、建築、芸術、文化が発展したのです。

現在「ザルツブルク市街の歴史地区」はユネスコの世界遺産に認定されています。
1920年からはザルツブルク音楽祭が開催されています。
例年夏に行われますが、2020年は100周年の記念すべき年ですが、現在開催検討中のようです。

ザルツブルク大司教はカトリック教会の最も重要な役職の一つで、モーツアルトはこの大権威者の元で宮廷音楽家をしていたわけです。

プチ・クエスチョン

Q1. ザルツブルクが舞台の有名な映画があります。それはなんでしょうか。

A.
『サウンド・オブ・ミュージック』touch

ザルツブルクは本物のトラップ一家が暮らしていた街で、映画の撮影もザルツブルクとその周辺で行われました。
ザルツブルク観光では「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」など、その世界を体験できるイベントがいろいろ用意されています。

ザルツブルク市の観光案内ウェブサイトより。

今日の1楽章は
モーツアルト交響曲第40番2楽章

さびメロディーをまとめて聴くのはこちら
「さびから入門クラシック」

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ハプスブルク帝国が勢力拡大した、そもそも https://magazine7.net/2min32/ Thu, 14 May 2020 08:20:15 +0000 https://magazine7.net/?p=3412 シリーズ 2分でクラシック 32/93

ハプスブルク帝国が勢力を拡大したのは1273年にドイツ王国の統治者となったことがきっかけでした。
では、なぜドイツ王国の統治者になると力を持つことになるのでしょうか。

それを解くキーワードは「神聖ローマ帝国」です。

ドイツ王国の王になること=「神聖ローマ帝国」皇帝になること。
でした。
これがヨーロッパでは大変な権威なのです。

なぜ権威なのでしょうか。

それは「神聖ローマ帝国」と名の付くとおり、ローマ帝国時代からの話になります。

ローマ帝国時代の4世紀、キリスト教はローマ帝国に公認されて国教となったことでローマ帝国全土へ拡大し、一気に勢力を強めました。
ですが、ローマ帝国は衰退します。
西と東に分裂し、やがて滅亡していくのです(西ローマ帝国が滅亡したのは476年、東ローマ帝国が滅亡したのは1453年)。

ローマ帝国の東西分裂

しかし、「ローマ帝国」「ローマ皇帝」の権威は続いていました。

ヨーロッパではローマ帝国滅亡後さまざまな勢力が進出しますが、現在の、ドイツ、フランス、イタリアの形が見え始めたのは843年の「フランク王国の分裂」です。

フランス、イタリア、ドイツの元祖

ドイツの元祖東フランク王国は、ローマ帝国の復興をめざしていて、ローマ教皇の領土に侵攻してきた勢力を撃退し、ローマ教皇を救いました。
これを称え、962年ローマ教皇は東フランク王に帝冠をさずけました。

これにより、東フランクの王はローマ教皇”お墨付き”の皇帝となったのです。

そしてこの領域は神聖ローマ帝国とよばれるようになり、ドイツ王は神聖ローマ帝国皇帝と同意となりました。

神聖ローマ帝国は間もなく分裂し強大な統一国家ではなくなりますが、「神聖ローマ帝国皇帝」の肩書は名門のブランドとして依然として有効でした。

神聖ローマ帝国の変遷



ですので、ハプスブルク家がドイツ王となり神聖ローマ帝国皇帝となったということは上り詰めるところまで来た。ヨーロッパでの権威を手にしたということになったのです。

1438年にハプスブルク家が神聖ローマ帝国の帝位を独占して以降、神聖ローマ帝国の皇帝=ハプスブルク家となりました。

18世紀中ごろのハプスブルク帝国と神聖ローマ帝国

領土としては神聖ローマ帝国全土を制覇しているということではありません。

今日の1楽章は
モーツアルト交響曲第31番【パリ】2楽章

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「さびから入門クラシック」

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ハプスブルク帝国とモーツアルトの曲名 https://magazine7.net/2min31/ Wed, 13 May 2020 07:01:03 +0000 https://magazine7.net/?p=3401 シリーズ 2分でクラシック 31/93

モーツアルトが生まれたザルツブルクからウィーンに活動拠点を移したのは1781年です。
ザルツブルクはザルツブルク大司教が君臨する独立国。
ウィーンは大帝国ハプスブルクの首都。

ウィーンに来てから作曲された交響曲は6曲です。

交響曲第35番 『ハフナー』1782年
交響曲第36番 『リンツ』1783年
交響曲第38番 『プラハ』1786年
交響曲第39番 1788年
交響曲第40番 1788年
交響曲第41番 『ジュピター』1788年

このうち、ハプスブルク帝国の地名が副題になっているのが2曲あります。
『リンツ』『プラハ』。
モーツアルト自身が副題をつけたわけではないと思われますが。気の合わないザルツブルク大司の元を飛び出してハプスブルク領内に入り伸び伸びと活動している様子が見えてくるようです。
リンツはオーストリアですからあたりまえにしても、プラハは現在のチェコです。
なぜチェコに? と思いますが、下記の地図を見ると違和感なく理解できます。

18世紀中頃のハプスブルク帝国

プチ・クエスチョン

Q1. 『リンツ』『プラハ』は地名です。では『ハフナー』はなにを表しているのでしょうか。

A.
ザルツブルクの富豪ハフナー家です。touch



ハフナー家の息子の爵位授与式用に作曲されたものです。

今日の1楽章は
モーツアルト交響曲第38番【プラハ】2楽章

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なぜウィーン? https://magazine7.net/2min30/ Tue, 12 May 2020 08:07:48 +0000 https://magazine7.net/?p=3395 シリーズ 2分でクラシック 30/93

モーツアルトは生まれたザルツブルクから、ウィーンに出ました。
ベートーベンも生まれたボンから、ウィーンに出ました。

なぜウィーンなのでしょうか。

キーワードは「ハプスブルク帝国」です。
ハプスブルク帝国はハプスブルク家の君主によって統治されていた国家です。
もとはスイスの小貴族にすぎませんでしたが、1273年にドイツ王国の統治者となったことを最初のきっかけに勢力を拡大し、各地を支配・統治・干渉しヨーロッパ一の隆盛を極めました。

そのハプスブルクの事実上の首都がウィーンだったのです。

1541年最盛期の頃にはメキシコ、キューバ、ペルー、フィリピンまでも支配領域としていましたが、それから約200-300年後のモーツアルトやベートーベンの時代には領土も縮小し勢力も下降していました。
とはいえ、くさってもハプスブルクということで、音楽はまだまだふんだに作曲されていたのです。

プチ・クエスチョン

Q1. ハプスブルク帝国最盛期の皇帝はだれでしょうか。

A.
カール5世touch

肩書は

朕カール5世、神の恩寵によるローマ人の皇帝、いかなる時も帝国の拡大者、ドイツ、カスティーリャ、アラゴン、レオン、両シチリア、エルサレム、ハンガリー、ダルマチア、クロアチア、ナバーラ、グラナダ、トレド、バレンシア、ガリシア、マジョルカ、セビーリャ、サルディーニャ、コルドバ、コルシカ、ハエン、アルガルベ、アルヘシラス、ジブラルタル、カナリア諸島、カリブ海諸島、大西洋中の国々等々の王、オーストリア大公にして、ブルゴーニュ、ブラーバント、シュタイアーマルク、ケルンテン、クライン、リンブルク、ルクセンブルク、ゲルデルン、カラブリア、アテネ、ネオパトリアそしてヴュルテンベルク等々の公、ハプスブルク、フランドル、ティロール、ゲルツ、バルセロナ、アルトワ、フランシュ=コンテの伯、エノー、ホラント、ゼーラント、フェレット、キーブルク、ナミュール、ルシヨン、サルダーニャ、ズトフェンの宮中伯、アルザスの方伯、ブルクアウ、オリスターノ、ブルグシオの辺境伯、シュヴァーベン、神聖ローマ帝国のシュヴァーベンの候、カタルーニャ、アストゥリアス等々の候、フリースラント、ヴィンディッシュ・マルク、ポルデノーネ、ビスケー、モリナ、サラン、トリポリそしてメヘレン等々の領主

だそうです。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第6番2楽章

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モーツアルトとフリーメイソン https://magazine7.net/2min29/ Mon, 11 May 2020 03:10:49 +0000 https://magazine7.net/?p=3379

シリーズ 2分でクラシック 29/93

フリーメイソンのシンボルマークの一つ

モーツアルトはフリーメイソンの会員であったことが知られています。
フリーメーソンは秘密結社的な組織で、秘密結社というと”謎に包まれた世界を裏で支配する正体不明の怪しい集団”といったイメージがあります。

ですが、秘密結社的なのは会則や儀式があって非公開な部分が多いというだけで、陰謀やオカルトの世界ではありません。

「自由・博愛・平等」の思想をもつ貴族や政治家、芸術家などさまざまな分野の有力者の交流の場でした。
当時は、権力者・貴族が支配する階級社会にたいして、国民の不満が高まっている時代で「自由・博愛・平等」の精神は進歩的な考え方でした。
ハイクラスの進歩人のサロンといったところでしょうか。

フリーメイソンは儀式がカルト的ということでローマ教皇から異端として取り締まられることもありました。

モーツアルトは1784年、28歳の時にフリーメイソンに入会しました。
ですが、すでに11歳の時にフリーメイソンとかかわっていて、「歓喜に寄す」という曲を作曲しています。

モーツアルトは、生まれ育ったザルツブルク時代にフリーメイソンを取り締まったローマ教皇の次に偉い大司教のもとで宮廷音楽家として働いていましたが、大司教と馬が合わず、ウィーンに移りました。

馬が合わなかったのもうなずけます。

H4見出しb

プチ・クエスチョン

Q1. モーツアルトがフリーメイソンのために作ったオペラはなんでしょうか。

A.
「魔笛」touch



主人公タミーノが試練を乗り越えてたどり着く神殿はフリーメイソンのロッジ(本部)、神殿で待つ司祭ザラストロはロッジの主催者を表しているとみられています。

今日の1楽章は
モーツアルト交響曲第41番2楽章

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モーツアルトのギャラ稼ぎ https://magazine7.net/2min28/ Sun, 10 May 2020 06:53:11 +0000 https://magazine7.net/?p=3356 シリーズ 2分でクラシック 28/93

モーツアルトが最初に就職したのは生まれたザルツブルクの大司教の宮廷でした。
父親が宮廷楽団員だったので、子どもの頃からその世界で音楽にかかわっていました。
大司教の宮廷ですから、仕事は宗教音楽です。
大司教様の厳格な管理のもと、宗教音楽を作り続けることは、安定はあるけれどマンネリなわけです。

そこでモーツアルトは大司教に嫌われる形で解雇されて、晴れて”独立”の道を歩き始めました。ウィーンに活動拠点を移すのです。
ウィーンでは、自由です。

フリー・ミュージシャンですから、自分で曲を作り演奏会を開いたり、個人レッスンをしたり、支援者を求めて貴族の会合に顔をだしたりと、現代のミュージシャンの元祖的な活動で、生計を立てていました。

この活動が評判をとり、いよいよ作曲家として本腰を入れるのです。
オペラの作曲です。
オペラは宮廷音楽とは違い興行ですから、劇場で上演されてなんぼです。
劇場側は受ける作品を上演したいわけで、いきおい流行もの、政治批判・貴族階級の風刺的なものになりがちです。それを支配者は許しません。皇帝の許可がないと上演できません。

そんななか、台本作家のダ・ポンテが「フィガロの結婚」の許可をとりつけます。
「フィガロの結婚」は簡単にいうと貴族社会の下世話な話で、召使が貴族をやりこめるストーリーなのですが、原作よりもオブラートにつつんだ台本にしたことで許可が出たということです。

フィガロの結婚序曲

モーツアルトはほかにもオペラのヒットを飛ばしながらも、皇帝ヨーゼフ2世から宮廷作曲家として指名され、毎年新年の舞踏会用の舞曲を作曲するという仕事も受注しています。

目を見張るフリー活動です。

プチ・クエスチョン

Q. ダ・ポンテとモーツアルトのコラボレーションで大成功したオペラは「フィガロの結婚」の他2作品あります。
それはなんでしょうか。

A.
「ドン・ジョバンニ」
「コシ・ファン・トゥッテ」touch



今日の1楽章は

モーツアルト交響曲第36番【リンツ】2楽章

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ベートーベンのパトロン https://magazine7.net/2min27/ Sat, 09 May 2020 07:34:59 +0000 https://magazine7.net/?p=3344 シリーズ 2分でクラシック 27/93

ベートーベンは富裕層から援助を受けて作曲活動を行っていました。
かなり広い範囲にファンがいました。

・誕生の地・ボンの貴族
・ボヘミアの貴族
・オーストリアの貴族
・ 〃 銀行家
・ 〃 実業家
・シュレージェン地方の貴族
・ポーランドの貴族
・ハンガリーの貴族
・ロシアの貴族
などです。

交響曲でいうと

第1番 オーストリアの貴族
第2番 ドイツの貴族
第3番 ボヘミアの貴族・ロブコヴィッツ侯爵
第4番 シュレージェン地方の貴族
第5番 ボヘミアの貴族・ロブコヴィッツ侯爵/ロシアの貴族・ラズモフスキー
第6番 ボヘミアの貴族・ロブコヴィッツ侯爵/ロシアの貴族・ラズモフスキー
第7番 オーストリアの銀行家
第8番 オーストリアの貴族・ルードルフ大公
第9番 プロイセン国王

大物過ぎがズラリです。

プチ・クエスチョン

Q1. このパトロンの中で、名前を付けて呼ばれる作品がある人がいます。それは誰でしょう。

A.
ラズモフスキーtouch



ラズモフスキーはロシアの外交官で、ウィーン会議でロシア特命大使の任にありました。
作品は弦楽四重奏第7番、第8番、第9番で、それぞれ「ラズモフスキー1番」「ラズモフスキー2番」「ラズモフスキー3番」と呼ばれています。

今日の1楽章は
ベートーベン交響曲第5番2楽章
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「さびから入門クラシック」

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「モーツアルトのかなしさは失踪する。涙は追い付けない。」 https://magazine7.net/2min26/ Fri, 08 May 2020 07:26:39 +0000 https://magazine7.net/?p=3334 シリーズ 2分でクラシック 26/93

小林秀雄がモーツアルトを評論した著作に『モオツァルト』があります。

そして、ことあるごとに引用される一文が「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」です。

いったい「涙がおいつけないほどのかなしさが疾走している」というのはどのような音なのでしょうか。

「弦楽五重奏曲4番ト短調 K.516」について語られたものです。
聴いてみましょう。
涙がおいつけないほどのかなしさが疾走しているところ

言われてみると確かにそのような気もしてきます・・・。
ちなみにこの一文は次のように続きます。

モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡(うち)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。

『モオツァルト』を読んで、モーツアルトにはまったという方もいらっしゃるようですが、この格調高い小林秀雄の名文を見て、一瞬気が遠くなっても、気にしません。
このサイトでは、音楽・メロディーそのものをシンプルに楽しみたいと思います。

今日の1楽章は

モーツアルト交響曲第40番3楽章

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「さびから入門クラシック」

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