醍醐寺

醍醐寺は京都観光必見の名所のうちの一つです。
「醍醐寺」というお寺があるわけではなく、笠取山(かさとりやま)という山の上から下に様々な建造物が建てられていて、それらを総称して醍醐寺といいます。

醍醐寺の魅力は建造物や庭、仏像、書、絵画などの国宝・重要文化財を多く所蔵していることはもちろん、日本史の有名な事件や人物とゆかりがあり、話題が満載という点が挙げられます。
世界文化遺産に登録もされています。

醍醐寺は平安時代に創建されて以来着々と繁栄を築き、室町時代の応仁の乱で壊滅状態になり、安土桃山時代、豊臣秀吉と結びつき復興を成し遂げました。

寺の運命は時の権力者のバックアップ次第といえます。
醍醐寺は時代時代で、重要人物と深く繋がりを持ち繁栄してきました。

時代と重要人物で醍醐寺のトピックとみどころをまとめます。
時代とトピックは次のとおりです。

①平安時代 醍醐天皇、「醍醐」の由来
[平安時代794-1184(390年間) 醍醐天皇(60代)885-930(45歳)]
②鎌倉時代 武家(源頼朝)と公家両輪で繁栄の基礎を築く。
[鎌倉時代1185-]
③南北朝時代 南朝・後醍醐天皇vs北朝側・足利尊氏の影響で二分。
[南北朝時代1336-1392(56年間)]
④室町時代 応仁の乱で没落。
[室町時代1336-1573(237年間)。応仁の乱1467-1478]
⑤安土桃山時代 豊臣秀吉の登場で大復活
[1568-1600年(32年間)]

これらを詳しくみます。

①平安時代 醍醐天皇、「醍醐」の由来

醍醐天皇

天皇より寺が先

名前のとおり醍醐寺と醍醐天皇は深い関係があります。
醍醐天皇は醍醐寺を御願寺(願いごとを行う私寺)と定めました。
醍醐天皇の私寺だから醍醐寺かというとそうではなくて、逆です。
醍醐寺と関係が深かった天皇だから、醍醐天皇となったのです。
天皇の元号は、現在では即位するタイミングで決められますが、昔は亡くなった後に決められていました。
醍醐寺がそれだけ醍醐天皇と密接だったということです。

なぜ醍醐天皇は醍醐寺と密接になったのか

菅原道真が関係しています。
菅原道真は大宰府に左遷されたことは有名ですが、その左遷させたのが醍醐天皇です。
道真は身分が高くない学者でしたが優秀でぐんぐん出世し右大臣にまでのぼりつめました。
一方、左大臣はというと藤原時平です。
時平は貴族が権力を握るなかで学者の道真が偉くなったことを快く思っていませんでした。
時平は道真を失脚させようと醍醐天皇に嘘の噂を伝えました。
「道真が醍醐天皇を退位させて弟を天皇にしようと企んでいる」と聞き醍醐天皇はあっさりだまされて激怒、道真を遠方の大宰府へ左遷しました。

道真は二年後に亡くなりました。

すると、京都では疫病や災害が続き、藤原時平や道真を追いやった人々が激しい雷に襲われ次々に亡くなりました。
|『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件

人々は道真の怨霊のしわざだととらえました。
醍醐天皇は醍醐寺の伽藍を豪華にすることで道真の怨霊に対抗しようと多額の費用をつぎ込んだのでした。

また、貴族たちは雷となってたたる道真の怨霊をしずめるために雷神つまり天神として太宰府天満宮、北野天満宮を設けたのでした。

ではなぜ醍醐寺なのか

醍醐寺の起源からです。
醍醐寺を起こしたのは聖宝という僧です。
聖宝は真言密教をひろめるために、ふさわしい場所を探していると笠取山(現在醍醐寺がある山)で一人の老人と出会いました。
この老人は「自分はこの地主の横尾明神であるが、この山をあなたにあげましょう。ぜひ密教を広めてください。私もバックアップします」と答え、近くの落ち葉をかき分けると泉が湧きました。
老人はその泉を両手ですくって飲み「ああ、これぞまことの醍醐味」と声をあげ姿を消しました。

これをきっかけとして聖宝は小さな小屋をたてて准胝観音(じゅんていかんのん)と如意輪観音(にょいりんかんのん)を彫って安置しました。
これが醍醐寺の起こりです。
874年のことでした。

この老人が醍醐水を飲んでいたとされる場所からは今も清水が湧き出ています。

|醍醐水

ちなみに、醍醐とは仏教語で乳を精製してできる飲み物をいい、五味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)の最上級のものをいいます。
醍醐寺では、心の糧として仏法が最高だという意味で使われます。

身近な話題ではカルピスで有名なカルピス株式会社は大正時代に脱脂乳を乳酸菌で発酵させた食品を開発し、醍醐味の商品名で発売しました。

平安時代のみどころ

仏像

イラスト さいとうじゅん

|薬師如来及両脇侍像(薬師堂安置)【国宝】


|閻魔天像【重要文化財】


|帝釈天騎象像【重要文化財】


|吉祥天立像【重要文化財】


|虚空蔵菩薩立像【国宝】


|阿弥陀如来坐像【重要文化財】


|阿弥陀如来坐像


|如意輪観音坐像【重要文化財】


|金剛力士立像(阿形)【重要文化財】


|木造金剛力士立像(うん型)【重要文化財】


|五大明王像(不動明王)【重要文化財】


|五大明王像(降三世明王)【重要文化財】


|五大明王像(軍荼利明王)【重要文化財】


|五大明王像(大威徳明王)【重要文化財】


|五大明王像(金剛夜叉明王)【重要文化財】


|銅造阿弥陀如来坐像【重要文化財】


|千手観音立像【重要文化財】


|五大明王像(五大堂安置)【重要文化財】

建造物

五重塔【国宝】

五重塔・初層内部【国宝】

|金堂【国宝】

金堂内陣【国宝】

|薬師堂【国宝】

|准胝堂
聖宝は醍醐寺を起こした際に准胝観音(じゅんていかんのん)と如意輪観音(にょいりんかんのん)を彫って安置しました。

准胝観音を安置したのが准胝堂です。
双方とも現存していませんが、准胝堂は1968年に再建されました。
しかし、2008年8月24日落雷による火災で焼失しました。
消失前の准胝堂

火災を伝えるニュース映像

如意輪観音を安置したのが如意輪堂です。
こちらは現在、1606年に再建されたものが残っています。

②鎌倉時代 武家(源頼朝)と公家両輪で繁栄の基礎を築く。

源頼朝と後鳥羽上皇

醍醐天皇は第60代の天皇でした。
その後貴族の政治が続きますが、平家が公家と調和しながら力をつけ、初めて政権を握りました。その後平家vs源氏が争い、源氏が勝利しついに源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。
頼朝は真言宗の一大勢力だった醍醐寺の力を見込んで関係を結びました。

また、その時の天皇は第82代後鳥羽天皇でした。そしてその祖父は後白河上皇(第77代天皇)で、醍醐寺で信仰を深めました。

醍醐寺は公家、武家両輪の支持を得ることになったのです。

これにより政治の混乱に巻き込まれることなく、経済的には安定し充実しました。

密教の発展

この頃、密教の学問が著しく発展しました。
特に図像の研究は傑出し、醍醐寺は密教図像の一大拠点となりました。

みどころ

仏像

イラスト さいとうじゅん

|薬師如来及両脇侍像(金堂安置。全体)【重要文化財】

|薬師如来(金堂安置)

|日光菩薩(金堂安置)

|月光菩薩(金堂安置)

|四天王立像(広目天)(金堂安置)

|四天王立像(多聞天)(金堂安置)


|地蔵菩薩立像【重要文化財】


|弥勒菩薩坐像(本堂安置) 快慶作【重要文化財】


|不動明王坐像 快慶作【重要文化財】


|愛染明王坐像

|如意輪観音菩薩坐像

|如意輪観音菩薩坐像(アップ)

③南北朝時代 南朝・後醍醐天皇vs北朝側・足利尊氏の影響で二分。

後醍醐天皇vs足利尊氏

鎌倉時代の終盤、幕府を開いた源氏は弱小化し、北条家が実権を握るようになっていました。
しかし、北条家も1333年不満を抱く新田義貞らに攻められ、鎌倉幕府は滅亡しました。
その後、権力を握ったのが京都の後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は全権を自分で握ろうとしたため、これに武士が反発しました。
武士のリーダーが足利尊氏です。
後醍醐天皇と足利尊氏は全面対決することになりました。

足利尊氏は後醍醐天皇の別の系統の公家・光明天皇を即位させ、征夷大将軍になり京都で実権を握りました。

これにより後醍醐天皇は吉野に逃げます(1336年)。
そして、そこで自分こそが正式な天皇であると主張しました。
これが南朝です。

これにたいし足利尊氏側は北朝です。
北朝はイケイケで、南朝の後醍醐天皇は1339年に亡くなりました。

南北朝の対立と醍醐寺

南朝対北朝の対立の構図はそのまま醍醐寺に反映されました。

醍醐寺トップの文観僧正は後醍醐天皇側、文観の後にトップになった賢俊僧正は足利尊氏側の立場をとりました。

醍醐寺には後醍醐天皇、足利尊氏それぞれの書が残されています。
後醍醐天皇天長印信

足利尊氏 理趣経

画像:https://www.daigoji.or.jp/archives/ より

④室町時代 応仁の乱で没落。

飛躍発展の時期

足利尊氏からの3代将軍足利義満の時に室町幕府は絶頂期でした。
金閣寺を建立したのも足利義満です。

その頃醍醐寺のトップについたのは満済です。
満済は足利将軍からの信頼が厚く、政治にもかかわり活躍、醍醐寺も飛躍発展しました。

応仁の乱と醍醐寺

足利義満は京都では絶大な力を持っていましたが、地方では有力大名がいて大名同士が争ったり将軍と大名が争ったり争乱も起きていました。

その争乱で大きなものが応仁の乱です。
応仁の乱は11年間だらだらと続き、焼き打ちが繰り返され、京都は焼けて荒廃しました。

醍醐寺も被害を免れず、下醍醐は焼き払われて五重塔だけが残りました。

その後豊臣秀吉が登場するまで127年間荒れたままでした。

みどころ

建造物

|清滝宮拝殿【国宝】

|清滝宮本殿【重要文化財】

⑤安土桃山時代 豊臣秀吉の登場で大復活

秀吉と醍醐寺

応仁の乱などで室町幕府は弱体化し崩壊しました。
一方、有力大名同士の争いはますます盛んになり、戦国時代に突入しました。
戦国を勝ち抜いたのが豊臣秀吉です。

豊臣秀吉は1585年関白になり翌年太政大臣になり、豊臣政権を確立しました。
関白というのは、天皇の補佐を行う職であり、武士の最高位・征夷大将軍よりもエラい位です。
秀吉は農民出身ですから、通常のルートでいえば就ける職ではありません。

この職に就くのに尽力してくれたのが、二条家です。
関白の座は埋まっていましたが、二条昭実が秀吉に譲ってくれたのです。
ここで秀吉は二条家に恩ができました。

秀吉はそのお返しに、二条家出身の僧侶・義演を准三后という高い身分に格上げしました。
この義演が醍醐寺トップの僧正でした。

醍醐の花見

秀吉はもともと花見が好きでした。
そして、醍醐寺ももともと桜で有名でした。

秀吉は醍醐寺での花見を企画します。

花見の目的は三つありました。
1.秀吉が太政大臣になる3ヵ月前、京都・大阪で大地震が発生しました。
この時多くの人が亡くなり、日ごろ外出することもなく生き残った女性たちに花見で楽しませたいと考えた。
2.町の景気がよくなく、花見という大行事をすることで、土木建築、衣装、道具など多方面での仕事が生まれ経済効果を狙った。
3.この会には徳川家康や他の有力大名は招待されませんでした。
その中で招待されたのが前田利家です。
利家を息子・豊臣秀頼の後見人として広く認知させようと考えた。

盛大な花見

花見当日は1587年3月15日に開催されました。
おだやかで花見日和だったということです。

花見には、妻のねね、側室の淀殿を筆頭に女性たちが1500人以上参加したとみられています。
醍醐寺は女人禁制でしたが当日ばかりは解禁でした。

この時参加者一人一人が和歌を詠いました。
これを後日短冊に記録されて、それが現存しています。
「醍醐花見短冊」で131葉が醍醐寺で保存されています。
秀吉、秀頼、前田利家などの作品を見ることができます。

三宝院完成

醍醐寺のトップ、義演は秀吉が恩を受けた二条家出身で秀吉に位を上げてもらいました。

義演は、秀吉の朝鮮出兵の際は勝利を祈願するなど貢献したこともあり、秀吉は義演の住居である三宝院を豪華に新造しようと考えました。
三宝院は醍醐寺TOPの座主の住まいをいいます。
特に庭に注力し、現在みられる三宝院庭園となったのです。

秀吉は秋には三宝院で紅葉狩りを計画していましたが、思いはかなわず花見の5カ月後、三宝院庭園の完成をみずに亡くなりました。

秀吉の死後は徳川家康の時代へ

家康の時代、秀吉と懇意だった醍醐寺は重んぜられることはなく、歴史の表舞台にのぼることはありませんでした。

みどころ

建造物

|三宝院唐門【国宝】

|三宝院殿堂/表書院【国宝】

|開山堂【重要文化財】

|如意輪堂【重要文化財】

|三宝院殿堂/玄関【重要文化財】

庭園

|醍醐寺三宝院庭園【特別史跡-特別名勝記念物】

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